R.W.FelkinFelkin, Robert W[illiam]
ロバート・W・フェルキン
(1853-1926)


魔法名 Finem Respice (5=6, G.D.) "Look to the end"

☆ 後期「暁の星」の指導者。自分がヒーローであることに気づかなかったヒーロー。

 幼少の頃から英雄崇拝気質が強く、最初のヒーローはアフリカ探検で名高いリビングストン博士。かの英雄への憧れから自らアフリカ探検を志し、アフリカ宣教団の一員となってスーダン奥地に入る。ここでゴードンやエミン・パシャといった傑物と出会い、さらに英雄崇拝気質を養ったものと思われる。またアフリカ探検時代に経験した現地の呪術師たちがなす神変不可思議の類もかれのオカルト人生に大きな影を落としている。

 ものごとを鵜呑みにしやすい性格の持ち主でもあり、「暁の星」団を率いるようになってから何度となくドイツに赴いて《秘密の首領》を捜索し、あげくの果てにルドルフ・シュタイナーと接触して団に人智学を持ち込み、教義体系を混乱させている。後年、ニュージーランドに移住して、同地に「暁の星」団の支部を設けている。

 フェルキンの問題点は、その自己欺瞞に加えて、確固たる態度(開き直り)に欠けていたことにある。「黄金の夜明け」団最終分裂後に「暁の星」団を引き受けるようになっているが、マサースと和解したブロディ−イネスからマサースの文書を写させてもらうなど、情けない行動が目立つ。高等教義を下位の団員に与えなければならないという立場は理解出来るが、それを自分で考えようとか、作り出そうという姿勢に欠けており、自動筆記に頼ったり、シュタイナーに教えて貰おうとしたり、他人を当てにする傾向が強い。

 無論、フェルキンは極度の《秘密の首領》信奉者であったから、自分で「高等教義」を創作するなど言語道断の話であったに違いないが、「暁の星」団のポテンシャリティーを考えると、彼の 優柔不断がなんとも惜しまれるのである。

 写真は1898年頃のフェルキン。中央アフリカの事情に関しては当時の第一人者のひとりといえる。


略歴

1853年、イングランド中部の町ビーストンにて出生。ウルヴァーハンプトンのグラマー・スクールを卒業後、鉄道の駅員として就職。その後ドイツのザクセン州に渡り、同地で工場を経営する親類のもとで働く。
1876年、エジンバラ大学医学部に入学。
1878年に医療奉仕団に参加して中央アフリカのウガンダに入る。ここで熱帯病理学の臨床経験を積む。
1884年に帰国して学位を授与される。
1885年にはドイツのマールブルグ大学からも医学博士号を授与されているから、医師としては本物であったと言えよう。最初の妻メアリー
1と結婚。二男一女を設ける。
1894年3月1日、アメン・ラーにて妻とともに「黄金の夜明け」団に参入。フェルキンは神智学協会スコットランド支部の会員であったから、この線で団に接触したものと推測される。
1896年末、ロンドンのイシス・ウラニアに於いてセカンド・オーダー参入。ファーの“スフィア”グループに参加して星幽体投射の修行を積んでいる。
1902年初頭、突然《秘密の首領》と連絡を取ったと宣言。この《秘密の首領》は「サン・マスター」と呼称される星幽的存在であり、自動筆記によってメッセージを伝えてくるという代物であった。
   5月3日、セカンド・オーダー年次総会で三首領の一人に選出される。
1903年末、妻メアリー死去。
1904年2月、たまたま医者稼業を通じてドイツの患者アンナ・シュプレンゲルを知り、天祐神助で失われたドイツ・コネクションを発見したと思い込む。
1906年、わざわざドイツに赴き、患者シュプレンゲルと対面する。この頃、アデレイド大学の教授の娘ハリエット・ダヴィッドソンと再婚。
1907年1月8日、エジンバラにてフリーメイソンリーに入会する。とにかく早いとこ英国薔薇十字協会の一員にならないと大陸の関係者に相手にして貰えないと信じこんだのが動機である。
1908年、 後妻ハリオット
2の自動筆記を通じて「アラブの師」アラ・ベン・セメシュと連絡を取り始める。 この頃、ブロディ−イネスからマサースの文書をわけてもらう約束を取り付ける。
1910年夏、ベルリンにシュタイナーを訪ねて深く感動し、ついに《秘密の首領》を捜し当てたと思い込む。続く4年間、フェルキンは暇を見てはシュタイナーのもとに通い、基本的なヨガを教えてもらっている。同時にネヴィル・ミーキン3という高弟をシュタイナーのもとに留学させる。
1912年6月、人智学の団内浸透を懸念したブロディ−イネスがついに「暁の星」団から離反。以後、フェルキンは数々の教義文書をすべて妻の自動筆記に頼るようになる。
   秋、なぜかニュージーランドに一家を引き連れて移住。同地に「エメラルドの海」テンプル Smaragdum Thalasses を設立。
1913年、ロンドンの責任者ネヴィル・ミーキンが急死したため、急遽英国に帰還する。
1914年、突如 8=3 宣言。
   8月にドイツにいて一次大戦に巻き込まれる。2週間後、なんとかドイツを脱出して英国に帰還。
1915年、「暁の星」団の内部改革を断行、第一オーダーから第六オーダーなるものを設定している。
1916年、「暁の星」系の四支部を設立。
   7月、再びニュージーランドに戻り、二度と英国に帰らず。この時にウエストコットから、ニュージーランド薔薇十字協会の監督官という肩書を保証する書類を餞別代わりに貰っている。ニュージーランド北島北部のハヴロック・ノースという小さな町に落ち着き、開業。
1917年から数年間、ロンドンの「暁の星」本部を遠隔操縦しようと試みるがすべて失敗。ロンドンではクリスチナ・スタッダートがフェルキンに叛旗を翻しており、フェルキンは長女エセルウィン
4をロンドンまで送り込んで対抗させたが、徒労に終わる。
1926年12月28日、ニュージーランドの自宅にて死去。


1. Mary Felkin (魔法名 Per Aspera Ad Astra, 5=6, G.D.)
2. Mrs Harriot Felkin (魔法名 Quaero Lucem, 7=4, S.M.) 彼女は極度の霊媒体質だったようである。夫の死後、ニュージーランドのテンプルを率いていた。1959年に死去。
3. Neville Meakin (魔法名 Ex Oriente Lux, 5=6, S.M.) 「暁の星」団史によれば、彼はドイツからオーストリア、コンスタンチノープルと放浪して薔薇十字の秘儀を極め、6=5に相当する位階に到達したとのこと。頓死の原因は不明。
4.Miss Ethelwyn Felkin (魔法名 Quaero Altissima, 5=6, S.M.) 先妻メアリーの娘。1962年に死去。

* 王立地理学協会会報に掲載されたフェルキン追悼文
「われわれはここに愛惜の念をもって46年間にわたる会友ロバート・W・フェルキン博士が12月28日ニュージーランドの自宅にて死去されたことを記録する。博士の尊名は19世紀後半中央アフリカの開拓に関心のある地理学者の間ではつとに知られている。スタンレーの訴えの結果としてウガンダにキリスト教医療奉仕団が結成されたとき、東海岸およびナイル流域沿いに遠征隊が送り込まれたが、フェルキンは後者のルートをとる医療宣教団の一員として参加、1878年に出発して1879年2月にムテカの都に到着している。この遅延はナイル上流に発生していた水草床によるものであった。博士はナイル上流の大湖を視認した最初の英国人である。諸般の事情により博士は3ヶ月の滞在のみで帰還を余儀なくされたが、さらに北部を目指そうと試みるも河川はいまだ閉塞状態であったため、同行のC・T・ウィルソン師とともに陸路バハル・エル・ガザル流域を縦断するという重要な旅行を敢行する。当時バル・エル・ガザル周辺は大部分が未詳の地域であったが、この地を南東から北西に突っ切るとこでバハル・エル・アラブ川上流に出て、さらに北進してダルフールのダラに到着(1879年12月31日)、そしてエジプトに出たのである。両名ともに1880年4月に協会の夕方会合にてそれぞれの経験を講演している。バハル・エル・ガザル縦断はほぼ未知の土地を進んで行われたものであり、両名のルートは後日ドイツのハッセンシュタイン博士が図表化し、本文とともに Petermanns Mitteilungen (1881) にて発表された。
 フェルキンはウィルソンとともに重要な著作『ウガンダとエジプト領スーダン』(上下巻1882年)を共著しており、また『エミン・パシャ書簡文書集成』(フェルキン夫人英訳、1888年)の共同編集者の一人でもある。かれはまた科学雑誌に多数の医学的また民族学的記事を寄稿しており、1895年には小著『アフリカにおける熱帯病の分布』を発表している。ケンジントンに数年居住したのち、ニュージーランドに移住し、人生の最後の十年を過ごしていた」 The Geographical Journal vol.LXIX, January to June 1929,( The Royal Geographical Society, London, 1929.) pp383-4.


主要著作 Uganda and the Egyptian Sudan, Sampson Low, Marston, Searle & Rivington, London, 1882.(with Rev.C.T.Wilson).
Hypnotism, or Psycho-Therapeutics, Young J. Pentland, Edinburgh, 1890.

Schnitzer, Edurad: Emin Pasha in Central Africa: being a collection of his letters & journals, George Philip and Son, London, 1888. edited and annoted by Ratzel, Felkin & Hartlaub (Eng.tr. by Mrs R.W.Felkin).
Marcus, S.:Monism? Thoughts Suggested by Professor Haeckel's Book "The Riddle of the Universe", Rebman, London, 1907. (Eng.tr. R.W.Felkin)
Rosicrucian Medecine, Societas Rosicruciana in Anglia, London, 1916.


参考文献 Inquire Within: Light-bearers of Darkness, Boswell, London, 1930.
−   − : The Trail of the Serpent, Boswell, London,1935.
Howe, Ellic: The Magicians of the Golden Dawn, RKP, London, 1972.
King, Francis: Ritual Magic in England, Neville Spearman, London, 1970.

Zalewski, Pat: Secret Inner Order Rituals of the Golden Dawn, Falcon Press, Phoenix, 1988.
Ellwood, Robert S. : Islands of the Dawn, University of Hawaii Press: Honolulu, 1993.
White, Georgiana: Dr Robert Felkin, magician on the borderland, MTG, Hawk's Bay, New Zealand, 2014.

関連ファイル フェルキン博士インタビュー アフリカ時代の回想。


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