Horniman, Annie Elizabeth Fredericka
アニー・ホーニマン
(1860-1937)

魔法名 Fortiter et Recte (5=6, G.D.)
"boldly and rightfully"

☆ 「黄金の夜明け」団に於ける一番のお金持ちにして、最大最強のトラブル・メーカー。

 アニー・ホーニマンは裕福な紅茶会社社長フレデリック・ホーニマンの娘として何不自由ない人生を送るべく、1860年天秤宮に出生している。莫大な信託財産や株券、不動産を譲渡され、千単位のポンドを右から左に動かせる独身女性として、20世紀アイルランド及びイングランド劇場運動の支援者となった。

 「黄金の夜明け」団参入は1890年1月、スレード美術学校時代の親友ミナ・ベルクソンの後を追ったものといえよう。団内ではすぐに5=6に昇進しているし、その魔術的実力は高く評価されている。彼女は他人から気安くたかられるようなやわな人間ではなかったが、納得のいく金銭的援助ならば信じられないほどの気前の良さを発揮する性質だったので、マサースの魔術研究とイェイツ の演劇公演に大金を寄付するようになった。
 ホーニマンという人物を一言で描写するなら、“a respectable Englishlady"というところであろう。「長身で物静かであり」
1、「峻厳で近寄り難い」2婦人である。メスフィールドの回想によれば、

「賛美すべき英国婦人あり。占星術に長けた画家なり。
目を閉じるとその姿がありありと浮かぶ。姿勢正しく、明晰にして端整なる容貌なり。
あれはエジプトの女司祭の顔だ、とわれらは口にした。
いにしえの知識を持ち、また率直という叡智を持つ、
勇敢にして気前のよいアニー・ホーニマン」


体面と上品を旨として、筋の通らぬことは大嫌いである。芸術と政治の混同を一切認めず、自分が金を出す以上、口も出すのは当然と確信している。彼女の対人関係が難しいものになったのは当然であろう。
 「黄金の夜明け」団内でホーニマンが関係したトラブルは第一にベリッジ不道徳問題であり、第二にマサース政治運動問題である。「品位ある英国婦人」にすれば、不道徳はもちろんのこと、マサースのスチュアート王朝復興運動などもってのほかだったのであり、即座に停止しないと援助を打ち切るとの威嚇をかけている。しかし、マサースはこれに応じず、逆にホーニマンを団から除名してしまった。
 第三のトラブルは、マサース追放後に団に復帰したホーニマンが、自分の不在中に行われていた団の乱脈運営の責任を当時の担当者であったフロレンス・ファーに求めたことに端を発する大喧嘩である。団の規約にないことを勝手に行うのは筋が通らぬというのがホーニマンの主張であり、この喧嘩は結局イェイツとホーニマンの団内孤立を招いてしまった。イェイツはその後も魔術研究を続けたが、ホーニマンはさすがに飽きたとみえて、団からきっぱりと足を洗っている。

 その後のホーニマンは演劇史中の人物となるが、我々が留意すべきは、ホーニマンが援助を惜しまぬ劇団は前衛的・実験的なものが多く、アマチュアに機会を与える意味が強いという点である。演劇と儀式の共通性を考慮に入れ、「黄金の夜明け」団という集団をレパートリー制アマチュア儀式集団として捕捉すれば、それなりの説明もつけられよう。そしてイェイツの劇をケルトの神々を召喚する一種の儀式と考え、なおかつ彼の後年の能に対する傾倒を思い合わせる時、ホーニマンがイェイツに贈った「アビー劇場」は実は「アビーテンプル」ではなかったのか − こう考えたい誘惑に駆られる。

1. The Abbey Theatre: Interviews and Recollections, ed.E.H.Mikhail(London: Macmillan, 1988) p. 42.
2. Ibid., p. 98.
3.John Masefield, Some Memories of W. B. Yeats, (Dublin: Cuala Press, 1940), p. 4.

略歴

1860年10月3日、出生。
1886年、スレード美術学校を出る。
1889年前後、なんらかの試練がある。(父親との不仲説、失恋説あり)
1890年1月、「黄金の夜明け」団イシス・ウラニアテンプル参入。
    7月、4=7に到達。
1891年12月7日、5=6。マサースがパリから持ち帰った新5=6儀式による最初のセカンド・オーダー参入者となる。
1894年後半あたりからベリッジ問題が起きる。
1896年12月3日、マサースと対立、団から除名される。
1900年4月21日、マサースの追放と入れ代わりに復団、書記に就任。すぐさまファーと抗争状態となる。
1901年2月27日、ファーとの抗争に敗れ、書記を辞任。
1903年2月25日、 ついに退団。
    10月、イェイツの劇“The King's Threshold”のダブリン公演をプロデュース、衣装デザインと製作を担当する。この時に貧乏に喘ぐ劇団関係者に接して、劇場設立を思い立つ。
1904年12月27日、「アビー劇場」こけらおとし。
1907年9月25日、故郷マンチェスターに「マンチェスター・レパートリー制劇場」(後の「ゲイアティー劇場」)を創立、こけらおとし。
1910年5月、エドワード七世崩御の際に、「アビー劇場」が喪に服さず公演を行ったことに激怒して責任者の解雇を要求、聞き入れられないので助成金を打ち切る。
    11月、劇場に対する権利を劇場側に譲渡して、全関係を断ち切る。
1917年、「ゲイアティー劇場」を財政的理由で事実上手放す。
1921年、演劇界から引退。ロンドンで悠々自適の隠居生活に入る。
1925年前後、神智学系組織「探求協会」The Quest Societyに顔を出す。
1937年、 死去。

主要著作
参考文献 Flannery, James W.: Miss Annie F. Hornimann and the Abbey Theatre, Dolmen Press, Dublin, 1970.
Pogson, Rex: Miss Hornimann and the Gaiety Theatre, Manchester, Rockliff, London, 1952.
Mikhail, E.H. (ed.): The Abbey Theratre: Interviews and recollections, Macmillan, London, 1988.    
Harper,George Mills: Yeats's Golden Dawn, Macmillan, London, 1974.
Greer,Mary K.: Women of the Golden Dawn, Park Street Press, Vermont, 1995.


参考ファイル ホーニマン直筆署名入り書簡


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