Boullan,
Joseph-Antoine ジョゼフ・アントワン・ブーラン (1824-1893) ☆ 奇怪な性的教義をもとにコミューンを形成していたリヨンの破戒坊主。晩年のド・ガイタ相手の魔術戦で有名。 1824年1月18日、ガロンヌにて出生。ローマの神学校に学び、優秀な神学者としての評判を取る。1856年にはパリに出てきて司祭となる。1859年からアデルという尼僧とともにパリ近郊にて宗教共同体を運営するが、彼女との良い仲が評判となり、破戒坊主として裁判にかけられ、3年間牢獄にぶちこまれる。 出獄後、数年はおとなしくしていたが、やがて異端の教義を唱えるようになり、1875年には完全に破門される。その直後、ブーランはやはり破門組の司祭であるユジェーヌ・ヴァントラという人物が率いる「カルメル教会」に接近し、ヴァントラの没後に教会の信者の一部を自分の信奉者として、リヨンに共同体を設けている。 ブーランの共同体は二重構造であり、一般向けにはカトリック的なミサを行っているが、中枢部では「性による救済」論と実践が行われていた。中枢部の教義は以下のようなものである − 「アダムとエヴァは肉欲的性を通じて堕落したのであるから、人間は宗教的性を通じてのみ救済されるのである。もし人間が向上を求めるのであれば高次の霊的存在と交わるべきであり、また、人間よりも進化していない存在と交わることで、それらの向上に手を貸すことも可能である。」 この教義の実践は、具体的には瞑想的自慰による天使や歴史上の偉人との性交、或は人間以下の四大精霊との性交という形を取っていたようである。あまりおおっぴらには出来ない話であった。 1886年、ブーランの共同体にド・ガイタとウィルトが意図を隠して入り込み、中枢部の教義と実践を知ってから遁走し、パリに戻って「秘教法廷」を開廷してブーランの欠席裁判を行っている。判決は当然ながら「有罪」であり、その旨をブーランに通知して今後の活動に関して厳重な警告を与えた。 以後、ブーランとド・ガイタの間で呪殺合戦が繰り広げられ、ブーランにはユイスマンスという味方もついて、派手な舌戦も交わされている。 1893年1月3日、ブーラン死去。老齢のためか呪術のためかは不明。 ブーランの活動に関しては、センセーショナルな噂が多く、尼僧アデルとの間に出来た私生児を生け贄にして黒ミサを行ったとか、聖体を糞尿にまみれさせたとか、様々である。この点を誇張して、ブーランをルイ14世時代の悪魔主義者の末裔と見なす向きもあるが、むしろスウェーデンボリに端を発する「セラフィータ・カルト」の変形と見るほうが正しいであろう。 |
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主要著作 | - - |
参考文献 | Rhodes, H.T.F.: The Satanic Mass, Arrow Books,
London, 1965. Baldick, Robert: The Life of J. K. Huysmans, Clarendon Press, Oxford, 1955. King, Francis: Sexuality, Magic and Perversion, Neville Spearman, London, 1971 |
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