Dickson, W[illiam] . E[lliot] . Carnegie W. E. カーネギー・ディクソン (1873-1954) 魔法名 Fortes Fortuna Juvat (5=6, S.M.) "Fortune favours the brave" ☆ 後期「暁の星」団の三首領の一人。父親1も「黄金の夜明け」団員であったという父子鷹の魔術師である。 1878年1月15日出生。 1896年、エジンバラ・アガデミーから大学に進学。 1898年、解剖学と人類学で学士号取得。 1901年、医学と化学の学士号も取得。 1903年、熱帯病と細菌学で学位を取得。その功績を認められて複数の奨学金を獲得。 1905年に医学博士号を授与される。その後エジンバラ大学にてW.S. グリーンフィールド教授の助手(後に教授の娘フランシス・エディスと結婚)となる。 1914年、ロンドンに出て医院を開業。一次大戦中は軍病院で奉仕し、軍医大尉となる。 1924年、ウェストエンド神経病院の病理部長に就任。この職を20年間保持する。 その後も病理学関連の著書を発表して医学界に貢献する。 1944年6月18日、ロンドン空襲によって個人的研究施設とウェストエンド病院の研究施設が焼失。 1944年末、引退。 1954年11月24日、夫人と息子二人、娘二人を残して死去。 世間一般に知られた趣味は写真撮影。 父親がエジンバラのアメン・ラーに所属していた関係で、ブロディ−イネスに魔術を学ぶ。大学卒業後に「暁の星」団アマウン・テンプルに参入している。セカンド・オーダー参入は1910年10月1日。 以後、「暁の星」団の主要メンバーとして数々の要職を歴任している。1916年には英国薔薇十字協会のメンバーのみを対象とする組織『シークレット・カレッジ』の三首領の一人にもなっており、ゆえにディクソンが同協会員にしてフリーメイソンであったこともわかる。 1923年の「暁の星」団本部潰滅以降、ディクソンはブリストルの「ヘルメス・ロッジ」のメンバーとなっており、1937年に同ロッジが閉鎖されるまでここに籍を置いていたものと思われる。 ディクソンは長期間に亙る「黄金の夜明け」系関係により、様々な流れに接していて、ブロディ−イネスのA.O.、フェルキンの「暁の星」はいうに及ばず、1930年には旧イシス・ウラニアの遺品2までも入手しており、ある意味で「歩く魔術結社」とでもいうべき人物であった。彼は「クロムレク・テンプル」の首領もつとめている。夫人であるフランシス・エディスも魔術師。 1954年にディクソンが死去した際、かなりの文書や遺品がコレクターに譲渡されており、その行方が注目される。 WCEDの蔵書票も注目に値する。上にスコットランドの国花であるアザミ、ヴィネット内はエジンバラ大学、下部に大英博物館というデザインであり、持ち主の気合が感じられる。 1. George Carnegie Dickson (5=6, G.D.)。 この父親の魔法名がF.F.J.であり、息子がこれを襲名したためにながらく混乱が生じている。F.F.J.はディクソン家伝来のモットー。 2. See, George Mills Harper, Yeat's Golden Dawn (London:Macmillan, 1974) pp.155-56. 「棺」を手に入れている。 |
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主要著作 | Bacteriology, Jack & Dodge, London, 1914. A Textbook of General Pathology, (with J. Martin Beattie) William Heinemann, London, 1921. |
参考文献 | Harper. George Mills: Yeat's Golden Dawn, Macmillan, London, 1974. |
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