『アッピンの赤い本』の話


この謎の書物に関して一応のところをまとめておきます。

 まずアッピンとはスコットランドの地名であり、ゲール語で「僧院の土地」を意味するそうです。具体的な場所は上を参照のこと。キリスト教の到来は6世紀中頃、アイルランド経由で聖コロンバがもたらしたとされています。中世前半はヴァイキングたちとの抗争にあけくれ、ようやく落ち着くのが13世紀頃、以降はスチュワートとキャンベルの両クランのあいだで支配権が移動すること数回。1745年の一斉蜂起以降、貧しい寒村というイメージが定着しています。

 通常、イングランドやスコットランドで「アッピン」といえば真っ先に思いつくのは「アッピン殺人事件」 Appin murder case でしょう。これは1752年に発生した謎多き事件でありまして、R.L.スティーヴンソンが Kidnapped で扱ったため、世界的に有名になりました。1745年の一斉蜂起以後のイングランド派とジャコバン派の抗争を背景とするミステリーであるため、日本ではいまひとつ知られていないのが残念です

 さてアッピンの赤い本。この書物が有名になったきっかけは1860年から刊行されたキャンベルの『ウェスト・ハイランド民間伝承』です。キャンベルは「スコットランドのグリム」と称される人物で、英語のみならずゲール語の民間伝承を口頭収集して分厚い四巻本で翻訳出版してくれたわけです。その第2巻に収録された「二人の羊飼いの話」に赤い本が登場します


 以下の話はアドキンラスのヘクター・アークハートがジョンと呼ばれる年老いた荷馬車屋から聞き書きしたものである。

 先週私がグレンファインのほうへ歩いていたとき、ロッジまで荷馬車で石炭を運ぶ老人に追いついた。「やあこんにちは、ジョン」と挨拶をすると「こんにちわでございます」とジョンが返す。気候の話をしばらくしたのち、わたしはジョンに切り出してみた。魔女の呪いや妖精の術に対して鉄製品が効くのだろうか?「そりゃ効きますとも」とジョンが答えた。そこでロッジに到着したのち、ジョンの話を書き留めることにした。

 ある年、まだわしが若造だった頃、雌牛がどれもこれもまったく乳を出さなくなりましてね。どうしたものかと頭をひねっていたらうちの兄貴がすぐさまアッピンまで赤い本の持ち主に相談しに行きましたよ。兄貴がその家に入るとすぐさま用件を言い当てられたそうです。「隣の家の女房だな」と男は言ったそうです。「そいつがあんたの雌牛をだめにしている。いまこの瞬間も女房はあんたの家に入り込んでいて、あんたがいるかどうか、どこに行ったかを聞き出そうとしている。いいか、念を押しておこう。隣の家の女房だ。そいつがあんたの雌牛をだめにしている。あんたが家に入ろうとすると、女は出ていこうとして軒下であんたを迎えることになる。いますぐ家に帰るがよい。去勢されていない馬の蹄鉄を牛舎の扉に打ちつけておけ。ただし誰にもそれを気づかれてはいかん」
 兄貴が帰りますと、赤い本の持ち主が言ったとおり、女が玄関口で出迎えたそうです。で、どうやったか知りませんが兄貴はその夜のうちに領主さまの牡馬の蹄鉄を手に入れまして、牛舎の扉に打ちつけたわけです。それからというものの、雌牛はたっぷり乳を出しまくりましたんで」
 「なかなか面白そうな本じゃないか、ジョン」と私。「その男はどうやって赤い本を手に入れたのかな。なにか知ってるかい?」。
 「へえ」とジョン。「お話しましょう」
Campbell, J.F., Popular Tales of the West Highlands, vol.II., (Alexander Gardner : London, 1890), p.101.

 ここから先の話はかつて小生が『西洋魔物図鑑』にまとめております。簡単に言いますと、アッピン村に悪魔とおぼしきものが出現し、孤児の少年を召使にしようとして魔法の赤い書物に署名を求める。少年はその場を口約束にて逃れ、主人に相談する。主人は少年に対処法と防護策を授けます。少年はまんまと悪魔を出し抜いて赤い書物をふんだくり、戦利品として主人に進呈します。この一連を「入手エピソード」と称することにしましょう。

 この物語には「謎の赤い書物」、「署名による契約」、「三位一体の剣にて刻まれる防護円」、「次々に化け物に変身して威嚇する悪魔」と実に魅力的なエレメントが多く、さまざまな解釈を許すのであります。ゆえに早速、この物語を巻頭に持ってきてあれこれ開陳する怪作、その名もずばり『アッピンの赤い本』 Red Book of Appin がイーサン・アレン・ヒッチコックによって著されたのです。怪作とは失礼な言い草かも知れませんが、「孤児は父も母も持たぬがゆえにメルキセデクをあらわす」といった丁寧な注釈が入る以上、この物言いも許されると思っておりますです。

 さてキャンベルが紹介した「赤い本」は分厚い四巻本の一エピソード「二人の羊飼いの話」のトピックだったわけですが、ヒッチコックの著書のタイトルに使われたことで一躍脚光を浴びたといえなくもないでしょう。ともあれこの書物はその後さまざまな場所で言及され、そのたびに話が大きくなるというか派手になっていくのです。それを年代順に並べてみましょう。

 1921年、アーネスト・リース が 『幽霊になる人、つきまとわれる人』にて「入手エピソード」を紹介。

 1921年、マーガレット・マリーが『西欧の魔女宗』 にて言及。「魔術処方が記された書物は所有者にとって大変に貴重なものであったにちがいない。当然ながらなかなか手放そうとはしなかったはずである。この種の書物が前世紀初頭まで現存していたことが判明している。それがアッピンの赤い本と称されている。この書物を悪魔から奪う話が二種類伝わっているが、どれもトリックにて奪ったという点は同じである。それは手写本であり、家畜治療のまじない等や乳の出が悪くなる呪いへの対抗手段が記されている。またこの書物の所有者には魔法の力が備わるとされており、質問者の心を瞬時に読めるようになる。また書物自体の魔力が強いため、ページをめくる際は鉄の輪を頭にはめる必要があるとのこと」 Margaret Murray, The Witch-Clut in Western Europe (Oxford : Clarendon Press, 1921), p.196.

 1927年、モンタギュー・サマーズの『魔女術と悪魔学の歴史』はさらにおどろおどろしくなります。「ときに魔女の名簿は別個の羊皮紙に記され、書物はまじないや呪文を書き留めることのみに使われる。そのような書物の好例が、100年前まで現存したアッピンの赤い本である。伝承にいわく、この書物は悪魔から詐取したとのこと。この書物は手写本であり、家畜治療や多産、あるいは豊作のための魔術ルーンと詠唱がたくさん記されている。きわめて貴重かつ興味深い書物ではあるが、すでに断絶したインヴァーナハイルのスチュワート家が所有していたという話が最後である。この奇書は持ち主に暗黒の力を授け、相手の質問が聞く前からわかるとのこと。また全体が神秘の術に包まれているため、この本を読む者は額に鉄の輪をはめなければならない」 Montague Summers, The History of Witchcraft and Demonology (London: Kegan Paul, Trench, Trubner & Co, 1926), pp.86-7.

 1935年、ついに赤い本は小説に登場します。それも痛快オカルト冒険ものの傑作デニス・ホイートリーの『黒魔団』のクライマックスに。ネタばれになるため余り詳しいことは申し上げられませんが、赤い本にある名前を読み上げると、どことなく東洋系を思わせる「光の主」が召喚されて悪党を一掃してくれる(十分ネタばれですな)という展開です。スコットランドの寒村に伝わる牛馬用おまじない書物から随分遠くにきてしまいました。言葉遣いとは恐ろしいもので、キャンベルではせいぜい「スペル」であったものがマリーでは「マジカル・パワー」となり、サマーズでは rune や incantation にまで拡大解釈されています。ホイートリーにかかれば赤い本は「セトの護符」をも吹き飛ばす究極のマジカル・アイテムとなってしまいました。

 1959年、戦後魔術界の重鎮W.E.バトラーは著書『魔術師、その訓練と作業』においてホイートリーの『黒魔団』を推薦図書に指定しました。かの光の侍従はなにを思っておられたのか。とにかくバトラー読者の多数が『黒魔団』を読み、アッピンの赤い本に多くの夢を託す状況が生まれたといえましょう。

 1977年、それまで前世紀の奇書として入手困難であったアレン・ヒッチコック著『アッピンの赤い本』をマンリー・パーマー・ホール率いるロサンジェルスのフィロソフィカル・リサーチ・ソサエティーが復刻。入手エピソードの裏読みという思考パターンがふたたび英米の魔術界に広まる契機となりました。

 以上の如き経緯を経て1984年頃、ロンドンはブルームズベリー界隈のオカルト好きの間で「アッピンの赤い本」、それに「ソロモンの小さな鍵」を結び付け、アッピン・エピソードに登場する悪魔を東方の主バアルと認定し、そこからさらに話を膨らませるという遊びが生まれたのであります。ファンタジーあるいはTRPGの設定とも言えましょうし、あるいは混沌系の発芽段階でありましたでしょうか。現場に行き合わせた小生はそのあたりを取材しておりまして、1993年の『西洋魔物図鑑』で紹介してみました。

 ここまで至ればあとはネクロノミコンと同様、これぞ真正の『アッピンの赤い本』なりとパスティーシュが登場するわけでして、すでにちらほら「らしきもの」がネット上に浮かんでおるようです。ご興味がおありの向きは自己責任にてお探しください。


bibliography

Cambell, J.F., Poplular Tales of the West Highlands, 4 vols, Alexander Gardner, London, 1890.
Hitchcock, Ethan Allen, The Red Book of Appin, James Miller, New York, 1865.: Philosophical Research Society, Los Angeles, 1977.
Rhys, Ernest, The Haunters and the Haunted, Daniel O'Connor, Lodon, 1921.
Murray, Margaret, The Witch-Cult in Western Europe, Clarendon Press, Oxford, 1921.
Summers, Montague, The History of Witchcraft and Demonology, LKegan Paul, Trench, Trubner & Co, London, 1926.
Wheatley, Dennis, The Devil Rides Out, Hutchinson, London, 1935.



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