黄金の夜明け団と自転車とブルーマー


☆ 近代魔術の祖と称される「黄金の夜明け」団であるが、その近代性のひとつとして言及されるのが女性メンバーの存在である。

 彼女たちは団内にて要職を占めることも多く、きわめて活動的であった。これがオカルト傾向を有する女性一般の特徴なのか、あるいはヴィクトリア朝末期に登場した“ニュー・ガール”が魔法結社に参入した結果なのか。この種のどうでもいい考察を行うこともオカルト的にみて重要な精神活動なのである。

 左の写真は『ロンドン・イラストレーテッド・スタンダード』紙1896年10月10日号に掲載された「ニュー・ガール」たちの写真である。はたして本物の街角スナップなのか疑問の余地もあるが、とりあえず自転車、ブルーマー、煙草という“三種の神器”をフィーチャーしている点は評価できよう。本稿ではヴィクトリア朝末期におけるこれら三種の神器の社会的位置付けを明確にし、かつ魔術結社に与えた影響の有無を考えてみるつもり(であったのだが、いざ書いてみると話はあらぬかたに進んでしまい、結局はヴィクトリア朝の風俗図鑑にしかならなかった)。

 思えばウェストコットもマサースもアンナ・キングスフォードの信奉者であり、ゆえにフェミニズムの理解者であったはずだ。そのかれらをしても、1890年代から急激に進展する女性たちの服飾改革や自転車ブームから混合海水浴に至るプロセスに接して、ただ呆然と眺めるしかなかったのではないか。その呆然を再現できればこの稿は成功なのである。

自転車

 そもそも服飾改革というのはヴィクトリア朝の重要なトピックであった。ジョージ朝末にあって、女性の服装は体を締めつけない緩やかなものになっていたが、ヴィクトリア朝になると不健康なまでにウェストラインを追求するようになり、全身の血流まで阻害する始末である。さらにいえば、一人で脱着できない複雑な衣装は緊急時にあっては着用者の生命をも脅かすのである。1871年11月、オスカー・ワイルドの異母姉妹であるエミリー(24)とメアリー(22)が舞踏会において大火傷を負って死亡している。エミリーのドレスに暖炉の火が引火してしまい、それを消そうとしたメアリーのドレスも炎上、周囲の人間が急いで消火にあたったが間に合わなかったのである。ヒラヒラしたドレスとペチコートの可燃性および着脱の困難が彼女たちの死を招いたといっても過言ではない。のちにワイルドと結婚するコンスタンスが服飾改革を熱心に推し進めるのも当然であった。

 ヴィクトリア朝末期、服飾改革の重要なファクターとなったのが自転車である。1890年代に入ると自転車はきわめて機動力に富む合理的な乗り物となっており、サイクリストは増加の一途をたどっていた。都市部では現在のバイク便にあたる「自転車メッセンジャー・ボーイ」が職業として成立していたほどである。1

 これほどの人気となれば、当然女性も自転車に興味を抱くわけだが、足首までを覆い隠すロングスカートを着用して自転車搭乗に挑まんとするは非現実的であり、ゆえに1849年アメリカにてアメリア・ブルーマー(1818-1894)が考案した活動的服装“ブルーマー”が制限付き市民権を得ることとなった。

 
上は自転車便の少年たち。フレーム部に配送会社の看板がとりつけてある。右は1896年頃に撮影された女性サイクリスト。十分に合理的な服装といえよう。

1 自転車の人気はとどまるところを知らず、極東からの留学生である夏目金之助すら「余は遂に婆さんの命に従つて自転車に乗るべく否自転車より落ちるべくラヴェンダー・ヒルへと参らざるべからず不運に際会せり」と、大家のおばさんから気分転換に自転車を勧められている。夏目はなんだかんだいいつつ自転車に乗れるようになつたようである。

 ともあれ1890年代、ふくらはぎもあらわに颯爽と自転車をとばす若い女性が街中に出現したのである。これをいかがわしい風潮として喜ぶのは今も昔も同じである。ブルーマー・ガールは時代の最先端をゆくニュー・ガールとしてもてはやされたのであった。

 しまいには自転車はいいからブルーマーとふくらはぎを鑑賞させてくれという阿呆な紳士諸君のための風俗営業「ブルーマー・レストラン」が開店したようである。ようするにウェイトレスがブルーマーを着用しているというだけの店である。流行ったかどうかは不明。

 左のイラストは貴重な資料であろうか、もはや筆者も確信が持てなくなっている。『ロンドン・イラストレーテッド・スタンダード』より。


そしていよいよ世紀末、服飾改革と同時進行する健康志向は大胆な女性たちをついに禁断の領域すなわち海水浴へと誘うのである。ことここに至って筆者はもはやこの稿を黄金の夜明け団や魔術と連動させることを諦めている。志ある者は自ら知恵を用いて試みるがよい。

 自転車乗りの女性たちを街角にて撮影することは、まあそれほど困難ではなかったのであるが、こと水着姿となれば話は別である。当時の新聞等に残る画像はほとんどイラストであり、写真はすべてスタジオでセットアップした代物であった。もっともイラストであれば画家が有する「かくあるべし」との願望が如実に表れるため、そちらのほうが興味深いともいえる。

 右も1896年の『ロンドン・イラストレーテッド・スタンダード』に掲載された当時の海水浴風景。付属の四行詩句は「現代のニンフ きみのよう美女がいる以上 昔のニンフなどどうでもいい 太陽を恥じ入らせるほどの金髪をなびかせ、 そして海のように気まぐれなきみ」とのことで、山下達郎かおまえはと20世紀末の日本であれば批判的指摘がなされるであろう。

 さらに話題は mixed bathing すなわち男女同席の海水浴へと展開されるのである。どうも当時の水着にも数種類あったらしく、女性のみの海水浴の場合はかなり現代の水着に近いものが採用され、男性がいる場合はスカート付属のものが推奨されていたようである。

 左もまた『スタンダード』のイラストである。六行詩にいわく「海水浴の謎 埃だらけの街中で 足首から上を見せようものなら 恥ずかしくて顔を赤らめる彼女たち しかし輝く砂浜では それ以上のものを見せてくれるので
 ぼくは − しぃっ!」。もはやコメントの必要も感じられないのであった。

このまま文章を終らせてはあまりになになので、無理やりにでも話を魔術関係に戻したく思う。

 黄金の夜明け」団にて自転車を好んだ女性の代表格はアニー・ホーニマンである。なにせエジンバラ・ロンドン間のサイクリング旅行を何度も行った猛者であり、よほどの持久力と強靭な下肢を持ち合わせていたものと思われる。

 また、ヘレン・ランドがフレデリック・リー・ガードナーに出した書簡に、奥方と一緒にチジィックからイーシャーまで自転車に乗ってランチを食べに来いと招待しているものがある。両者は直線距離で10マイルほど離れており、テムズ沿いにサイクリングするとなるとキューガーデン、リッチモンドパーク、ハンプトンコートを経由していくことになる。ウィンブルドンのあたりはさぞや風光明媚であっただろう。こういう場合のサイクリングは二人乗りのタンデム車で行うのが普通である。

 どうも「黄金の夜明け」団というと、ロンドンの片隅でなにやらインドア活動というイメージがあるが、気合の入った団員たちとて日常は普通の人間であり、当時の流行りものに十二分に影響を受けていたのである。初夏のテムズ沿いを奥さんと一緒にタンデム自転車で走っていくF.L.ガードナーもまた覚えておくべきイメージであろう。




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