魔術と音楽
儀式伴奏として
黄金の夜明け団の儀式では音楽を用いることはない。テンプル内に響くものは人間の声と司官杖を用いた叩音のみである。これは故意なのか、あるいは時代的制約ゆえの結果なのか、それともなんらかの必然であったのか、おそらくは最後の理由であったと思われる。
黄金の夜明け団が創立されたヴィクトリア朝末期、当然ながら音楽は生演奏しかないのである。一応秘密結社を自認するGDとしては、まさか儀式場に楽団を入れるわけにもいくまい。
さらには楽曲の問題もある。0=0儀式用のオリジナル曲を準備するのも無理な相談であろう。だからといってバッハやヘンデルといった宗教音楽を流用するのも情けない話である。
ローマ・カトリック教会は1200年かけて音楽を飼い馴らし、形式化し、儀式に組み込んだのである。コンスタンティヌス帝の宣言によってローマの国教と化した4世紀以降、教会は音楽の整備に着手した。連祷を賛美歌とし、これが合唱化され、音階と楽譜が整備されるのに600年かかり、さらに600年を費やしてパイプオルガンを開発したといえる。この間に音楽を専門とする職種が登場し、バッハに至るのであって、いわば中世1000年間に構築された神学と同様、すべてを理論化・形式化し、逸脱を許さない。このような音楽を魔術儀式に用いるなど論外である。
魔術儀式における音楽の重要性を考察した人間としては、クロウリーをあげないわけにはいかない。性魔術に関する小論『活性化熱狂』において、クロウリーは天才を発動させる方法を語る。いわく天才とは精液分泌過程の副産物といえるのであって、偉大な芸術家たちはみな無意識的にその発動を行ってきた。その過程を分析することにより、意識的発動を試みることが可能であるとする。具体的には、酒、歌、女の三要素を組み込んだ儀式がそれであり、クロウリーは各要素を考察するのである。
クロウリーいわく、楽器を導入するのはむつかしいという。人間の声、あるいはヴァイオリンあたりが妥協的選択となる。汎用性があるものとしては太鼓があげられている。
次にあげるものは1910年に上演された『エレウシス儀礼』に用いられた楽曲である。すべてヴァイオリン曲であり、ライラ・ウォデルが無伴奏で演奏している。
ヴィエニャフスキーのクァイヤヴィヤーク、伝説、序曲、第二コンチェルトのロマンス、Dポロネーズ
バッハのGアリア、サラバンド、シャコンヌ
シューマンのセレナーデ
ドルドラのセレナーデ
ブラームスのアダージョ、ハンガリー舞曲第二番
ワグナーの優勝の歌、トリスタンとイソルデより愛の歌
メンデルスゾーンのアンダンテ
ベートーヴェンのマーチ、Gロマンス、Dロマンス
ヴュータンのセレナーデ
フランツ・リースのロマンス、モト・ペルペチュオ
カール・ボームのパピヨン
マックス・ブルッフのロマンス
フランシス・トメのアンダンテ・レリジオッソ
ダンブロジオのカンツォネッタ
サンサーンスのロマンス
チャイコフスキーのスケルツィオ
セザール・キュイの子守唄
ボイルのノクターン
ライラ・ウォデルのオリジナル曲
一応儀式の内容に応じたセレクションとなっている。エレウシス儀礼は七惑星に照応する七つの儀式を毎週水曜日に上演するものであった。クロウリーの詩の朗読、ウォデルのヴァイオリン演奏、ニューバーグの舞踏を基調としており、一部では好評を博している。ちなみに三年後の1913年にグスタフ・ホルストが『組曲惑星』を発表している。時間を戻せるものなら、クロウリーはホルストを使いたかったであろう。
宝の持ち腐れということもある。19世紀末フランスの魔術結社『薔薇十字カバラ団』にはエリック・サティーが参加していた。サティーは団の指導者ペラダンのために『星の息子』その他を作曲してやったのだが、当のペラダンはあろうことかワグナー狂であり、前衛的なサティーを評価できなかった。結局サティーは一年余で団を離れてしまった。
魔術儀式に用いられる音楽は、やはり専用に作曲されたオリジナルが望ましい。儀式たるもの、日常からの脱却と意識の変容を目指すべきであって、そのために不可思議な法衣や小道具が導入されているのである。手垢のついた既成曲を流すといった妥協はするべきではない。
0=0儀式にあらためて伴奏をつけても大した効果は得られないであろう。当時の制約ゆえに無伴奏を前提として構成された儀式であるからだ。この稿では新作儀式を念頭において記述を進めたい。
まず儀式伴奏を考える際、二種類のアプローチがあると思われる。
BGMの場合は比較的簡単であろう。いわゆる環境系の音楽を思えばよい。さほど抑揚のない和音系のストリングス反復を用いて雰囲気を出す。耳にさわらないようコーラスエフェクトをかけ、深めの残響を用いる。
あるいは儀式の民族的資質によってBGMを決定してもよい。ヨガ道場ではシタールを鳴らしっぱなしである。神社では雅楽にまさるBGMはない。
問題はRTMである。これはバレエ音楽を考えるとわかりやすい。ダンサーは音楽に合わせて動き、指揮者はダンサーの動きに合わせてタクトを振る。両者の呼吸がぴたりと一致してこそ効果が生まれる。
これをオリジナル魔術儀式に組み込むとなれば、熟練の作曲者と演奏者が必要となる。儀式司官にも相応の身のこなしが要求されよう。それが可能だという恵まれた環境にあったとしても、儀式の性格次第ではとんだ逆効果を生みかねない。
儀式の性格を考える場合は、言葉への依存性を判断基準にするとよい。
わかりやすい例を引くとこうなる。
演劇 ― 言葉が主であり、音楽は従、あるいはなくともよい。
オペラ ― 言葉と音楽が一体化して歌となる。
バレエ ― 音楽が主であり、言葉は消える。
言葉に依存する性格の魔術儀式にRTMを組み込むと、すべてが台無しになる可能性が高い。バレエの最中に突然プリマがしゃべりだせばお笑い草である。言葉を使わないという前提で、各種の所作が成立しているからだ。
次に考察すべきは儀式の種類である。これは観客の有無の問題といいかえてもよい。
入門儀式の場合、志願者は観客であると考えるべきであろう。儀式司官は志願者に感銘を与える必要がある。入団によって新たなる人生が始まることを実感させねばらない。そのためには闇から光への場面転換、あるいは洗礼、あるいは命名といった具合に、出産を象徴するあらゆるものが用いられる。
観客を意識する儀式の場合は、RTMの導入が効果的であるが、これとて程度ものである。上記の演劇→オペラ→バレエという言語依存段階性を考慮に入れ、入門儀式がどのあたりに位置するかを見定めたうえで音楽を創作する必要がある。
一方、観客不在の儀式、すなわち個人作業による魔術儀式の場合は、BGMが無難である。さらに言えば、小川のせせらぎや風鳴りといった自然のBGMが存在するならば、人為的音楽など無粋のきわみであろう。
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楽器の決定も重要である。今回は万物照応論をもとに考えてみよう。
魔術儀式は地、水、火、空気の4元素を基盤としている。ゆえに各楽器を4元素に照応させるのが筋であろう。
空気 フルートに代表される木管楽器。この照応にはまず異論は出ないであろう。
地 低音の楽器。チェロ。バス―ン。大太鼓。
水 水滴の音を連想させる楽器。鉄琴の中音部あたりか。ハープでさざなみを表現する手もある。
火 華やかな音の楽器。金管楽器、特にトランペット。摩擦という点でヴァイオリン。
無論、練達のピアニストならピアノ一台で4元素を表現できるであろう。
シンセサイザー等の電子楽器は慎重に導入すべきである。安直な音作りをすれば儀式全体が安っぽくなる。スピーカーの配置も問題となるであろう。
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さて、儀式場に楽団を入れないとすると、BGMにせよRTMにせよ、録音機材を用いることになる。
いかにいいかげんな魔術師といえども、祭壇上に無骨なラジカセをどんと置いておこうとは思わないであろう。
スピーカーの隠し場所としては、実はその祭壇が一番である。大型のスピーカーに布をかぶせて祭壇にしてしまうのである。配線はうまくまとめて目立たないようにする。
RTMの場合、タイミングを見て音楽を流す関係上、専任の人間を決めておく。無論、周到なリハーサルが必要である。
司官が楽器に堪能であるなら、生演奏を試みる手もある。ただし、常識からいって司官がサックスを吹くとか、フェンダーにチョップを入れるなどは考えものであろう。