近代の「魔術」

19世紀末ロンドンの魔術結社「黄金の夜明け」団ではいかなる魔術が行われていたのか。おおざっぱなイメージとしては――人気のない一室にて椅子に座ってリラックスし、呼吸を整えてから視覚化を行う。扉やタロットカードといったシンボルを思い浮かべ、そのなかに没入してヴィジョンを得るのである。すなわち意識を保ったまま睡眠状態を作り出し、冷静に夢を見ている状態といってよい。赤い三角形を視覚化することで炎の世界に遊ぶ。青い円を視覚化すれば水の王国に至る。当初のヴィジョンを基点としてさらに別の世界へ移行し、その世界の守護者と接触して新たなシンボルを貰ったりするのである。(眠って見るのがドリーム、起きたまま見るのがヴィジョンといえる)。

 無論、この作業は19世紀末に初めて行われたものではない。修道院内では修道士たちが日々の祈祷とステンドグラス越しの透明色彩光をヴィジョン誘発の手段としていた。水盤に墨や油を一滴垂らしてさっと広がる鏡面に映像を見る「スペキュリエ」術は古今東西に伝承がある。黄金の夜明け」団のそれがいまだに注目され、命脈を保っている理由は、ヴィジョンの分類と検査を行った点にある。すなわち個人的記憶に起因するヴィジョン、宇宙的記憶に起因するヴィジョン、あるいは混乱したヴィジョンというものを想定し、その検査法(煩雑なのでここでは述べない)も規定したのである。

 さらには作業仮説としてのシンボルの逆操作もある。宇宙の動作の結果として各種シンボルがヴィジョン内に登場するのであれば、こちらからシンボルを送りこむことで宇宙を操作できないか、とする発想である。アイルランドはイングランドの植民地となって幾星霜、ケルトの神々もヴィジョン内にあってすら瀕死の体である。さればヴィジョン内にて神々を蘇生させればアイルランドも蘇生するのではないか――少なくとも愛蘭の詩人イエイツはそう考え、地道に民話や伝説を収集し、神々の死骸の在り処を探り出そうと東奔西走していた。ケルトの女神は尼僧に身をやつし、カトリックの地方聖女として命脈をつないでいるのか。ふたたび肌もあらわにヒースの野を疾駆する日が訪れるのか。魔術師である詩人はヴィジョン内にて荒涼たるストーンサークルを訪れ、その場に座す老女に拝礼をなす。果たして老女は自ら若き日々の名を名乗るのか。あるいは詩人が差し出す赤い手帳に花押を書き込んでくれるのか。

無論、かくの如くして得られた「名前」や「花押」、それを記した書物や日記は「奥義書」「秘伝書」として厳重に秘匿される。術者は死期を悟るとすべてを破棄するのがしきたりとされている。突然死によってそれがかなわぬ場合も想定されるが、だからといって遺言状に「黒い箱は中身を調べることなく燃やせ」とか記すと無用の好奇心を招く結果になる。そこで「暗号」の登場となるのであり、事実、オカルティズムは暗号術と深く関わってきた。

 すなわち廃墟の如き図書館の片隅に眠る奇怪な奥義書や錬金術書、そこには暗号にて異界の神秘が記されている。それを解読し、不可思議なシンボルをもとにヴィジョン追求を行えば、かつてそのシンボルのもとに崇拝された太古の神々、いいかえれば宇宙の記憶庫に封印されたエネルギーを再発動させられるのではないか――このファンタジーもまた近代の魔術師たちのゲームとなったのである。かくしてある者は大英博物館にいりびたり、ある者はパリ国立図書館を事実上の住処とする。この時点で俗世にあって生活費を稼ぐという発想がなくなっているため、貴族でない魔術師は大変である。

 無論、勘違いも多発する。この世のものとも思えぬほど美しいヴィジョンを目にしたからといって、その美しさを自分のペンや絵筆で再現するのはまったく別問題なのだが、それがわからない魔術師も多かった。駄作を読まされる後輩の身にもなれと愚痴のひとつも言いたくなる。さらにヴィジョン内にて天使や大賢者と交際するため、自分も天使にして大賢者であると思い込み、そののりで現実世界に対峙して破綻する者も続出した。

 あるいは薔薇戦争の秘史を当事者の霊から教えてもらって新説を展開する者がおり、大英博物館エジプト展示室に飾られている塑像にこっそり触って像の記憶を読み取る「心霊考古学」もある。すでに英国では各種のオカルト雑誌が刊行されており、この手の珍説奇論が発表の場を有していたのも大きかった。

 結局「黄金の夜明け」団は創立15年で四分五裂してしまったが、その術はさまざまな分派に伝えられ、目立たない悲喜劇を生みつつ現在に至っている。自分が魔術に失敗したので世界大恐慌が起きたと「懺悔」する者(魔術界では懺悔が自慢の同義である場合が多い)がいる一方、ヒトラーの英国本土侵攻を魔術で阻止したと主張する流派が二つ。

 近代の魔術はヴィジョンを中心に展開し、その主観的実効性を確認してきた。少なくとも人間が夢を見ることを否定する者はいないのであり、睡眠と夢がわれわれの性格や健康に影響を与え得る点にも異論はないであろう。さればヴィジョンをコントロールすることで夢の世界に遊ぼう――ここまでが常識の範囲内である。ここから先は作業仮説、大胆な仮説、奇説、妄想となっていく。

 ともかくも魔術師は退屈しない。古今東西かれらの人生はヴィジョンに彩られ、ときに貧しく、ときに愚かである。だが、退屈だけは無縁なのであり、その一事をもってわれらの憧憬の対象となりうるのである。

 


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