慶長八年(1603年)に刊行されたキリシタン文献『こんちりさんのりゃく』に当時の雰囲気を物語る一節がある。ざっとしたところを現代文に直す。
「このたび将軍様がキリシタンご法度を出されたので、お奉行さまが都からいらっしゃいました。そのお奉行さまがこのあたりのキリシタン衆を改宗させようとなさいました。一同が集められ、改宗届に捺印せよとしつこく迫られました。とにかくうわべだけでも改宗しておけと勧められたので、女房子供の命を助けるために、口先だけながら、改宗しました」
「去年、御所様が神仏のご利益に感謝して愛宕八幡にお寺を建立されたのですが、お奉行さま、代官衆、百姓衆、それぞれが身分にしたがって公役を担当させられました。われわれはキリシタンなのでお寺の建立には手を貸せません。そこで外教人に賃金を払ってかわりに働いてもらおうとたくらみましたが、あれこれと追求されたため、結局数度にわたって公役をいたしました。とはいえ、神仏に対して崇敬の念などありません。ただお奉行さまのご勘気を蒙るのを避けるためではありましたが、外教の寺を造るなどはキリシタンの戒めるところです。それはわかっておりましたが、しょうがありませんでした。」
「公事がらみの用で外教人の家に厄介になっておりました。その宿の亭主に自分がキリシタンであることを見破られまいとして、たびたび外教の御堂に通って外教人なみにお祈りをしました。神仏を褒め称える言葉を聞かされたときも、もっともじゃと頷いてしまいました。」
「あるとき、外教人と棄教人が一緒になってキリシタンのことをそしり、あざっけっているところに居合わせました。やめさせようとは思いましたが、結局、なにもできずじまいでした」
“こんちりさん”とは神父不在の場合に告解に代わるものとして行う自己批判であり、十戒の各項目に沿って行われる。『こんちりさんのりゃく』はそのためのマニュアルであり、自己批判の具体例を紹介する書物である。上記の引用の場合、告解者はキリシタンの庄屋と思われ、「御おきてのまんだめんと」の第一「御一たいのでうすをうやまいたっとひ奉るべし」(どちりなきりしたん)に関する告白を行っているのである。
1603年の時点ですでにパードレ不足という事態に陥ったキリシタンたちの苦労が読み取れるが、宗門改めを行う奉行サイドも大変だったであろう。うわべだけでも改宗しろと勧めるあたり、人情味すら感じられるし、ようするに後年ほどの苛酷な弾圧ではなかったといえるであろう。
ただし、これは結局嵐のまえの静けさでしかないのである。慶長年間、徳川が対処すべき最大の問題は豊臣の処分であって、キリシタンは後回しにされていたのである。
1612年から1613年に施行されたキリシタン禁止令はパードレ不足を決定的なものにした。さらに当時の宣教師たちの方針であった日本人修道士のパードレへの昇格拒否が混乱に拍車をかけていたといえよう。日本語訳聖書がなく、教理関係の書物が『どちりなきりしたん』と『とがのぞき規則』のみという状況では、パードレの指導から外れると、正統非正統の区別すらつきにくくなるのである。
1637年の島原の乱では、天草四郎時貞なる少年が“神の子”としてまつりあげられている。キリシタン禁止令施行後、わずか25年にして偽救世主が登場しているわけで、このあたりにローマ・カトリックが有するグノーシス変容傾向を見て取れる。
なお、ローマ・カトリック教会は“神の子”を担いだ島原のキリシタンたちを一切認めていない。島原で虐殺された彼らは殉教者ではないのである。
島原の乱からおよそ30年間、日本各地で苛酷なキリシタン狩りが行われた。徹底的な踏絵が行われ、絵を踏めなかったキリシタンたちは穴吊りという拷問に遭い、それでも改宗しない者はすべて斬殺されている。
以降、いわゆる隠れキリシタン(注1)と呼ばれる人々は、すべて絵を踏んだ者たちとなり、表面的には仏教徒を装うことになった。
かれらが内心ではカトリック教徒であることを幕府は重々承知していたが、毎年絵を踏むかぎり、大目に見ることにしたのである。
注1 専門的には江戸期のキリシタンは「潜伏キリシタン」と称し、明治に入って禁教令が解除されてからも潜伏を続けるキリシタンたちを隠れキリシタンと称する。本稿では煩瑣を避けるためにおおむね隠れキリシタンという言葉を用いる。