歴史的展開
海外向けの記述としては、日本宗教史の概略を記さねばならないが、ネット公開用日本語原稿では割愛する。
邪馬台国の女王卑弥呼とその鬼道 ― フレイザー流司祭王としての天皇 ― 神道 ― 仏教伝来 ― 仏教と神道の抗争 ― 聖徳太子 ― 本地垂迹説 ― 神仏習合 ― 仏教各派の隆盛 ― 1549年 キリスト教の伝来 ―
以下、キリシタン史における主要な出来事を年代順に並べる(青文字は世界史の重要事件、赤文字は日本史の重要事件)。
1540年 イエズス会創立 1549年 ザビエル来日 1579年 ヴァリニャーノ来日 1580年 スペイン、ポルトガルを併合 1581年 オランダ独立 1582年 天正少年使節派遣。 本能寺の変にて信長死す。 1587年 秀吉の伴天連追放令 1588年 無敵艦隊の敗北、スペインの制海権喪失 1592年 フランシスコ会、ドミニコ会、日本布教開始 1596年 サンフェリペ号事件 1597年 26聖人の殉教 1598年 秀吉死す。 1612年 旗本および直轄地の禁教令 1613年 全国的禁教令 1616年 家康死す。 1636年 鎖国令発布 1637年 島原の乱 |
俗に3つのGといわれる。Gold、Glory、Gospel
ザビエルを最初とする宣教師たちが日本に次々と上陸し、神の教えを説いてまわる背景を皮肉る言辞である。
少なくともザビエルは栄光と福音のみが動機であっただろうが、その後の顔ぶれとなるともうひとつのGの影がつきまとっている。
日本の読者にはザビエル来日から島原の乱までの経緯はおなじみであろう。この稿ではキリシタン弾圧に至る社会的経済的背景に触れるにとどめる。
そもそも当時の布教活動は国家の布教保護権のもとに行われていた。これは国家が教団の布教活動を軍事的経済的に保障するかわりに、教団は国家の植民地政策に協力するという恐るべき契約である。スペインの場合でいえば、メキシコ、ペルー、マニラがこの契約の結果、聖俗一体の軍事征服のはてに植民地となっている。ポルトガルはゴア、マラッカ、マカオを入手している。
ザビエル来日当時、幸か不幸か日本は戦国時代であり、戦国大名が大童で血刀を振り回していた。五千から一万の兵員動員能力を有する大名も少なくなく、この状況下ではマラッカからの兵員海上輸送による日本の軍事制圧は不可能であった。むしろ大名たちをキリシタンに入信させることによる比較的穏健な文化侵略が是とされたのであり、以降イエズス会は有力大名に狙いを絞るトップ交渉をそつなく行っている。
ただし有力大名たちにも魂胆があった。宣教師たちとつきあう目的はおおむね海外貿易による利潤であり、さらには最新兵器の入手であった。いわゆるキリシタン大名と呼ばれる人種も前期後期に大別されるのであって、大友宗麟と高山右近では水と油である。
カトリックの日本布教は1549年のザビエル来日に始まり、以降トルレス、ヴァリニャーノといった有能なイエズス会士の指導のもと、着実に進展していった。これは同時にイエズス会とポルトガルによる対日貿易および日明貿易仲介業の独占をも意味していたのであるが、1580年のスペインによるポルトガル併合の結果、スペイン系の修道会であるフランシスコ会、ドミニコ会等が日本進出を企画、既得権を主張するイエズス会とのあいだで暗闘を繰り広げるようになった。
無論この暗闘は時の権力者秀吉の知るところとなり、最終的には1587年博多湾洋上における伴天連追放令の発布につながるのである。
さらに修道会三派に追い討ちをかけたのが1588年の無敵艦隊の敗北である。スペイン帝国が制海権を失ったということは、とりもなおさず極東に展開されていた前線基地の補給が絶たれることを意味し、聖俗一体化していた修道会も独立採算を余儀なくされたのである。マカオのフランシスコ会もドミニコ会も経済的理由から日本進出を迫られ、もはやイエズス会の既得権など一顧だにしないようになった。
イエズス会はイエズス会で、日本布教の基盤として長崎の永久租借および要塞化の必要性を説くなど、軍事制圧傾向を捨ててはいなかった。
この状況下でサンフェリペ号事件があり、さらに26聖人の殉教と続いたところで秀吉が死去する。キリスト教団は次なる権力者家康の顔色をうかがう日々が続いたといえよう。
1600年、関ヶ原の戦いにより天下をほぼ手中に収めた家康は、外交顧問に英国人ウィリアム・アダムズを登用している。この点からも徳川政権が反スペイン/ポルトガル、反カトリックを是とすることは明らかであった。
家康は三河時代より門徒宗の反抗に苦しめられており、宗教勢力の政治介入を毛嫌いしていた。さらには対外貿易を全面管理して利潤を独占するためにも、キリスト教団の勢力をそぐ必要があった。この目的で導入されたのが1604年の糸割符制である。
かくして在日キリスト教団は経済的に追いつめられ、有力大名の支援も失い、気息奄々となっている。
徳川幕府はその基盤を着々と固め、豊臣氏を追い詰める一方、一般人民にもキリシタン禁止令を発布してゆく。
大阪冬の陣、夏の陣をへて豊臣は滅亡。対外的にはスペイン・ポルトガルの凋落があり、対日貿易は英国とオランダのみが制限貿易を許される形となり、やがて英国が脱落、オランダの独占となる。そのオランダも最初は平戸、のちに長崎の出島に押し込められ、宗教活動を一切行わない旨を誓約させられている。
キリシタン関係の最後の反抗は島原の乱とされているが、この乱は領主松倉氏に対する事実上の農民一揆であり、宗教的背景は薄いといっていい。キリシタンの反乱という定義は幕府側の公式見解であって、キリシタンの恐ろしさを国内向けに宣伝するためのものであった。
以上、ザビエル来日から島原の乱に至るおよそ90年間を概括してきたが、信長から家康までの為政者サイドのキリシタンへの対応は常に政治的であり物質的であった。南蛮の異神を許しては扶桑の神仏に申し訳が立たぬといった国粋主義的非寛容は、一部仏教関係者が抱きはしても、有力大名には一切見られないといってよい。
日本では中世から戦国期をへて近世に至る途上、キリシタンに限らず政治指向を有する宗教関係者はすべて弾圧される運命にあった。
キリシタン弾圧は信長の叡山焼き討ち、秀吉の根来征伐といった宗教者弾圧と同一線上にあったといえる。