奥義書とプリンターズマーク


 時祷書は中世最大のベストセラーとなり、16世紀末まで作製された。やがて細密画、木版カット、その他いろいろな部分がいろいろな物品装飾に利用・流用・盗用され、その使命を終えたのだが、小生のにらむところ、いよいよ最後のカスのような部分が「奥義書」に紛れ込んだのではないか。いわゆる「中世の奥義書」が実は近世の産物であり、早くて17世紀後半、実質は18世紀に入ってオカルト趣味の好事家のために作製されたものというのが常識的な見解であろう。


 以上は拙稿「タロット雑感」の一部だが、本稿ではさらなる補足を行いたい。今回俎上にあげるものは「奥義書」によく見られる悪魔の紋章の類である。

いかに慎み深い娘といえども男を追い求めるようになる術
 月の満ちるとき、あるいは欠けるとき、星の見える夜の11時から12時。未使用の羊皮紙を用意せよ。それに目当ての娘の名前を記せ。羊皮紙は図のとおりの形にするべし。裏面には次の言葉を刻め。 Melchiael, Bareschas。羊皮紙を地面に置くべし。人名のほうを下にせよ。左ひざを地面につけ、右足を羊皮紙に乗せよ。この姿勢のままで夜空で一番明るい星を眺めよ。右手には一時間以上燃えつづける大きな白蝋燭を持つべし。そして次の呪文を唱えよ。

 われ汝に敬礼をなし、汝を呼び出さん。おお美しき月よ、美しき星よ、我が手のなかの輝きよ。われが吸う空気によりて、わがうちにある息によりて、われが触れる大地によりて、汝のなかに住まう諸侯たるもろもろの霊の御名によりて、われは汝を呼び出さん・・・(以下略)


 上に出した例は各種奥義書の付録等に見られる有名なもので、タイトルからして随分な代物であろう。ウェイトの『黒魔術と契約の書』から抜粋させていただいた。もちろん、本稿の目的はかような術の紹介にあるのではなく、羊皮紙の図形を考察することにある。

 さようなおまじないレベルはいやだとお思いの向きもあろう。ならば有名どころとして『大奥義書』 Grand Grimoire 収録の「ルシファー紋章図」を参考にしてもよい。

ルシファー紋章図

中段の2種類が明らかに組み合わせ文字。下段の雲十字は木版からの流用か。


 結論から言うと、この種の悪魔の紋章、図形、印形の類はもともとインキュナブラ(初期印刷本、1500年以前に活版印刷された書物のこと)によく見られた印刷業者紋章が原型と思われる。一般に printer's mark, device と称され、簡単な図形や文字を組み合わせたものが多い。18世紀以降、書誌学の発達とともにプリンターズマークの収集と分類も進展し、一覧表も作られるようになった。下に出すものは Thomas Hartwell Horne の An Introduction to the study of bibliography (1814) にあるデヴァイス・テーブルである。


 グーテンベルグに象徴されるように、活版印刷術はドイツにて大いに隆盛を見ており、ゆえにドイツ系のプリンターズ・マークは実に種類が多い。16世紀後半、ファウスト伝説の流行とともにファウスト系魔術書(おまじない本)の需要が高まると、印刷業者は早速あやしげな図版を集めては市場に供給したのであって、その際にプリンターズ・マークまでが引っ張りだされたと見るのが妥当であろう。それが17世紀、18世紀と伝わるうちに、由来すら定かでない神秘の図形とされた−−以上、筆者の想定である。

 かくの如くして15世紀の文化遺産はその残滓に至るまで魔術的に有効利用されたのであり、後発のわれらは先達の知恵と狡猾に感嘆すればよいのであろう。

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