各種カード寓意
運命の輪 − タロットが単一のシンボリズムによって成立していない証拠、と称してもよいであろう。 タロット=連続祭壇画にしてイエスの生涯とするのがO∴H∴の見解であるが、22枚の大アルカナ中、どうしても数枚、この図式に合致してくれないカードがある。「魔術師」、「隠者」、「運命の輪」、「剛毅」、「塔」がその代表であり、とりわけこの「運命の輪」はキリスト教にすら関係がない。 雀が落ちることも神の摂理とする神学と、人知の及ばぬ盲目的運命(フォルテュナ)の存在は、これは相容れないのである。 相容れないという建前が存在する一方、現実には運命が往来を闊歩しているのである。さらに、万事を神の意志と設定する場合、人間の自由意思すら神の先行決定事項と化してしまう。アリストテレスはかつて「偶然という観念があってはじめて人間の自由意志が意味を持つ」と説いており、この観念は後世聖アウグスティヌスも受け入れている。簡単にいえば、キリスト教といえども建前は神の摂理、本音は運命論でいくしかなかった。さらにいえば、中世にあっては、フォルテュナを悪魔と同一視し、敬虔なる信仰を持てば運命の輪から外れることができるという、いわゆる「解脱思想」すら生まれている。 そもそも運命の輪は女神フォルテュナの手で回されるのであるが、運命論に関する議論が重ねられていくうちに、次第に女神の姿が失われ、非人間的機械的原理として車輪のみの存在となっていくのである。 タロット=カバラの秘儀説を提唱したエリファス・レヴィは、このカードをエゼキエルの輪と照応させている。この解釈はライダー版にも引き継がれている。 |
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剛毅 - 中世寓意の一大テーマとして、「美徳VS悪徳」という善悪の抗争がある。「剛毅」は美徳陣営の四天王の一人であり、通例ライオンとともにある女性像で描かれるのである。ちなみに残りの三名は「正義」、「節制」、「深慮」であり、深慮は隠者として、他はそのままの称号でそれぞれタロットに入りこんでいる。 ライオンと聖書という観点から考える場合、まず考えられるのは士師記のサムソン、ダニエル書のダニエルであろう。黄金伝説をひもとくなら、聖ヒエロニムスとライオンの逸話も考えられる。 サムソンのはようするにライオンを素手で引き裂くという武勇伝であり、たいして深読みはできない。 ダニエル書の場合、ちょっとしたいざこざから預言者ダニエルがライオンの穴に放り込まれる。しかしダニエルいわく「わたしの神はその使いをおくって、ししの口を閉ざされたので、ししはわたしを害しませんでした」(ダニエル6.22)。おおダニエルの神に栄光あれ、というエピソードとなる。ライダー版の「剛毅」は、明らかにダニエルの天使を描いていると思われる。 聖ヒエロニムスとライオンは、ようするに砂漠の隠者ヒエロニムスのもとに足に刺をさしたライオンがやってくる。その刺を抜いてやると、ライオンはその後ずっとヒエロニムスのそばにいたという、そういうお話。 |
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塔 - 聖書と塔、となればまず思い浮かべるのはバベルの塔であろうが、大アルカナ16番のカードは旧約の一大スペクタクルを描くにはやや力感不足の感が否めない。 このカードはむしろ聖人伝に取材したものと見なすべきであろう。結論からいえば聖バルバラの物語である。 4世紀初頭にヘリオポリスに生まれたとされる聖バルバラ(出生地に異説多し)は、ようするにお姫様の類であり、とんでもない箱入り娘であった。父王ディオスコルスは娘に悪い虫がつかないようにとバルバラを塔に幽閉して育てたのであるが、自分の不在中に娘はキリスト教の洗礼を受けてしまった。クリスチャンとなったバルバラは信仰のあかしとして塔に三番目の窓を造り、三位一体を象徴させたのである。これを知った父王は激怒し、バルバラを判事に引き渡した。バルバラは殉教したが、父親も落雷に会って死亡したという、そういうお話。 三つの窓、塔、落雷、転落する人物など、すべてはバルバラ伝説に合致するといえる。ライダー版になると、落下する人物の一人は王冠をかぶっており、ディオスコルスを表現しているのは明白である。 |