チャールズ・ロシャー書簡

Charles Rosher's Letter to Mrs Wieland




Friday 8th Oct 1915

My dear Soror
                I expect to be in your neighbourhood at about one o'clock tomorrow and propose to call, and hope you will be in. I cannot keep my thoughts from Bunco and, strangely, from A.C. but only by way of comparison. Who -- of these twain --is the real Guru? A.C. & F.H. ought to be hung on a sour apple tree -- or given over to the tender mercies of Horatio Bumley and his barbarians.
            I have my ticket of embarkation notice and shall not have to leave until Tuesday morning when I will go by the special from Paddington at 11.5. or from Euston 12.5.  If you are disposed for an airing you might accompany me to Streatham and Croydon.
   Soror -- trust in love and kind thoughts -- we are glad your sister is with you

                                                            Fraternally yours 
                                                              C.R.

1915年10月8日 金曜日

親愛なるソロール

 明日一時頃ご近所におりますのでご都合がよろしければお目にかかりたく思います。ブンコのことが頭から離れません。そして奇妙なことにACのことも頭から離れないのですが、なぜか比較という形になっております。二人のうち、どちらが真のグルなのでしょう? ACとFHは酸っぱいリンゴの樹に吊るされるか、ボレイショ・ボトムレイ一味に引き渡されて可愛がってもらえばよいと思ってしまいます。

 滞在許可証がありますので、火曜日午前中までは出発せずにすみます。あとは11時5分パディントン発ないし12時5分ユーストン発の特急で発つことになります。ご気分がよろしければストリートハムからクロイドンまでご一緒いただけませんか。

 ソロールにはみなの愛と思いやりを信頼くださいますよう。姉上がご一緒とうかがい、ほっとしております。

            兄弟姉妹の親愛をこめて
             C.R.

解説

 チャールズ・ロシャーがウィーランド夫人(エセル・アーチャー)に宛てた書簡である。ソロールという書き出しから見て、両者が所属しているA.A.のメンバーとしての通信であることがわかる。

 チャールズ・ロシャー(?−?)は1894年5月5日に黄金の夜明け団イシス・ウラニアテンプルに参入、1895年9月26日に第二団昇格。妻カロラインも1896年11月に入団しているが、3−8位階で休団状態となっている。マグレガー・マサースやクロウリーと近しい関係にあり、一時期アラン・ベネットとルームシェアしていたこともある。後年クロウリーが評していわく、「世界をまたにかけた何でも屋である。新式水洗便所の特許もとれば、モロッコのサルタン付きの宮廷絵師をしていたこともある。わたしがかつて目にしたなかで最低の詩を書いてもいる。なんでも楽しめるスポーツマンで、世界中の土地を踏み、また踏みつけられたがために身についた朗らかさと勇気も持ち合わせている。あれほど多芸多才でなかったなら、なにをしても成功していたにちがいない」(『告白』179頁)とのこと。

 ウィーランド夫妻はクロウリーの出版事業に深く関係しており、ウィーランド出版を興して『春秋分点』他のクロウリー作品を世に送り出している。クロウリーが1914年に渡米した時点で夫妻と魔術師の縁は一旦切れており、ウィーランド(文中のブンコ)は一次大戦に従軍、戦線で負傷して病院送りとなり、1915年10月5日に死亡している。悲報を受けた妻エセルは倒れて入院したと見え、ロシャーが送った書簡は病院へ転送されている。

 この書簡の面白い点は、クロウリーはおろかマサースやアラン・ベネットとも面識があるロシャーが、クロウリーとウィーランドを比較している点である。もうロシャーもクロウリーに愛想が尽きたらしく、フランク・ハリスともどもひどい目にあうがよいと言いたい放題のていである。

 ウィーランド未亡人は回復後、エセル・アーチャー名義で多数の詩や記事を発表し、1961年頃に他界している。もっとも重要な著作は『春秋分点』誌刊行時を描いた小説『ヒエログリフ』(1932)であろうか。

 



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