抄伝 ウィリアム・トマス・ホートン(1864−1919) |
ロジャー・イングペン |
1919年2月19日、ホーヴにおいてウィリアム・トマス・ホートン死去。 すなわち驚くべき人柄の人物が世を去ったのである。 なるほどかれは世間一般に知られた存在ではなかったが、その天賦の才を高く評価する少数の友人たちもいた。 かれらは将来ホートンの作品が大いに認められるであろうと信じて疑わない。 かれの絵画が、画家自身の趣味や傾向、そして力量ゆえに制限がかかってはいるが、さまざまな路線と局面において、異常なまでに興味深い精神を明らかにしている点は疑う余地がない。 かれが残した作品コレクションは、およそ25年におよぶ不断の努力の結実であるが、実質的に未発表のままであり、きわめて親しい友人以外には見せられることすらなかった。 ホートンはその死の数年前から人生計画を決めてしまっていて、また外界からの影響や干渉を気にせず邁進できる幸運な立場にあったのだ。 * * * * 1864年6月27日、ブリュッセルにてホートン出生。両親ともに英国人である。 ホートン家はもともとはケントのアッシュフォードの出身だが、父親の職業ゆえに長年欧州全域を渡り歩くという生活を余儀なくされ、ようやく落ち着いた先がベルギーの首都であった。 ここでウィル(と呼ばれていた)は初等教育を授かり、しばらくのあいだ幾何学と製図を学んでいる。 少年時代を簡略に書き残した記録によれば、このころから心に浮かんだことを紙に移す作業を試みたことがあるという。 この頃は木材から顔や文字や名前を切り出したりしており、石工のハンマーと鑿も使ってみようとしたが手に負えなかったとのこと。 子供の頃からかれは書物と絵画を情熱的に好んでいた。 子供時代の記憶として印象深いものは、普仏戦争の勃発、それにブリュッセル在住のフランス人たちが所属連隊へ向かう出征風景であった。 * * * * その後、少年ホートンは家族とともにブライトンに移っている。 この頃、かれはまだほとんど英語が話せなかったと思う。よくて不完全という状態ではなかったか。 かれはブライトン・グラマー・スクールに送り込まれた。この学校には数年後にオーブレイ・ビアズリーが入学している。 ブライトン校ではきっと二人の画家が残したあれこれを大事にしているであろう。両者は実に共通点が多い。 * * * * 卒業後、ホートンはブライトンの某建築家のもとで年季奉公し、また地元の美術学校で建築を学んでいる。 1887年には王立アカデミー建築学校に入学し、初等科から高等科まで進級したが、本人いわく賞はひとつもとれず、なにをやっても平均点どまりだったという。 王立アカデミーでの作品発表はただ一回、1890年のことである。 このときかれはインクとペンで劇場正面のためのデザイン画を描いている。 最初の頃は建築学が好きだったが、しだいに嫌いになっていったとのこと。 かれは文学方面に強い関心を持っており、そこでプロの作家に短編を一本見てもらい、助言をいただこうと決心した。 当の相手はトマス・ハーディー氏である。氏もまた作家になる以前に建築を学んでいたからである。 氏は丁寧な返信を寄こし、いわく「いいかげんなアドバイスだから真剣に受け取らないように」と念押ししてから本題に入った。 まず短編を返却し、「なかなかいい」としながら言葉を継いでいる。 「私の一般的な意見としては、あなたはなにがあっても建築関係の職業を辞めてはいけません」 「文学のほうが稼ぎがいいだろうなどと勘違いしてはいけないのです」 文学方面に強い関心があるのであれば、建築をからめたテーマで文芸誌に投稿するという道もあります」 専門分野を持っていれば機会にも恵まれるでしょう。そういう作品のほうが編集者にも受けがよいと聞いています」 あなたのフランス語の知識は具体的に役に立つと思います」 建築関係のフランス語の専門誌を通じて海外の建築界の動向に敏感になられるとよろしい」 欧州建築の現代動向は英国ではほとんど知られていませんし、それについて書かれた文献もほとんどないと思います」 * * * * ハーディー氏の助言を心に刻んだホートンは、とある建築事務所で職を得ている。 しかし後年の告白によれば、雇用主の計画を実行に移すという作業が苦手であり、とどのつまり、他人のために働くのは自分には無理という結論に達してしまったという。 1893年11月、かれは自分の事務所を開いてみたが、数ヶ月やってみただけで嫌気がさして店仕舞いしてしまった。 わたしとかれとの出会いは、ちょうどこの直後ではなかったかと思う。 わたしが目にしたことのあるホートンの設計図は一枚だけで、丁寧に描かれた劇場用昇降装置だった。 職業としての建築はかれの興味の対象ではなくなっていたが、まったく興味がなくなったというわけでもなかった。 絵画を始めるにあたり、製図士として正規の訓練経験は大いにかれの役にたっている。 * * * * 90年代初頭、ホートンはわたしのもとにとある人物の身元保証の確認にやってきた。その人物とこれから文学関係で一旗あげようとしていたのだ。 それはともかく、わたしとかれは共通の興味事項が多く、趣味も一致していたので、たちまち友達となってしまい、その交流はホートンの死をもって終止符を打つまで続いた。 当時かれは結婚したばかりで、ブリクストンに住んでいたが、すぐにレッドヒルへ引っ越した。後者のほうには数回訪問したことがある。ホートンは散歩が大好きで、よくふたりして田舎方面を長時間散策したものである。 その後かれはブライトンに転居し、ながらく同地の住人となった。 * * * * 建築を生業とするのはあきらめた。しかし金は稼がねばならぬ、とロンドンを離れたあたりからホートンも考えていたのである。 それなりの資産はあったものの、補充の必要性は認識している。そこでホートンは文筆業に打って出て−−文学方面の野心は決して捨てていない−−『ウィスパーズ サレイの民のための雑誌』なるものを創刊した。 このささやかな定期刊行物はレッドヒルで出版され、編集と執筆の大部分がホートンひとりの手になるものだった。 当時かれはバルザックを熱心に研究しており、『ウィスパーズ』に連載された小説「神秘の意志」のはじめの章はかのフランスの文豪に大いに影響され、またディケンズに着想を得たものといってよい。 この作品が完結しないうちに雑誌のほうが休刊となってしまった。 確証はないのだが、ホートンは作品を書き上げていたと思われる。とにかく作品全体が日の目をみることはなかったのである。 発表された分を紹介すると、キングズクロス界隈の安下宿をリアリスティックに描いた部分などは、学校を出てロンドンに住み、結婚するまでの実体験に基づいたものと思われる。 ホートンはいつでもユーモアの精神を保持しており、暗鬱なリアリズムを背景にしつつも独自のブラックジョークが随所に顔を出すというストーリー展開だった。 * * * * レッドヒルにいた頃、ホートンは一兵卒として芸術家志願連隊に参加し、1893年2月18日の志願兵記録にウォルマーにおけるイースター演習の模様を書き残している。 ホートンと兵士という組み合わせは決して異常ではない。かれの背筋が伸びた姿勢と歩き方には明らかに軍人を思わせるものがあった。 先の大戦中、明らかに年齢超過かつ健康不順にもかかわらず、かれはいつ召集されてもいいようにと軍事教練を行っていた。 ホートンが編集権の買収によって雑誌業界に足場を得ようとした事例は『ウィスパーズ』だけではなかった。一時期、出版事業にも手を出していたのだが、こちらは長続きしなかった。 * * * * かれが最初に美術方面に目を向けたのはレッドヒルに住んでいた頃だった。 記録によれば1893年10月3日に油絵とチョーク画の研究を始めたとある。 わたしの記憶では、レッドヒル宅を訪問したときに何枚か見せてもらったことがある。 習作を一枚貰ったのもこのときだった。なんとも粗っぽい代物だったが、独学の絵描きによく見られるオジリナリティーがうかがわれた。 この特質はホートンの作品から完全に消えることはなかったといえる。 しかし線描に専念しようと決意するや、ホートンはかれ一流の熱意をもって邁進していった。 ホートンがポートフォリオを携えてロンドンに頻繁に顔を出す。わたしたちがは街で落ち合うか、わたしの家で会うかしていた。 しばしば夜半まで話し込むため、ホートンはそのままうちに泊まっていった。 ポートフォリオを持ち出しては、かれの線画について議論するのが慣例だった。 延々と文学談義をしていると、ウォルター・デ・ラ・メアが不意に顔を見せるというのもこの頃だったと思う。 わたしたちはウェルズの『タイムマシン』、『モロー博士の島』、ロンブロゾーの『天才』といった当時の作品を土台として、未開発の精神能力の可能性を考察していた。ホートンはこの種の考察がたまらなく面白かったらしい。 当時かれが読んでいたフランスの書物で大いに影響されていたものといえば、まずテオフィール・ゴーティエの全作品(とりわけ『七宝螺鈿集』 Emaux et Camees を賞賛)がある。 フランソワ・ヴィヨンの詩も大いに愛するところであり、ここに着想を得た線画を何枚も描いている。うち一枚は『サヴォイ』誌に掲載された。 ボードレールとアレクサンドル・デュマ(子)も愛好していた。 わたしたちは『絵入りジル・ブラース物語』誌を購読しており、ホートンはステインレンの作品を賛美してやまなかった。その作品は毎週欠かさず掲載されていて、ややもすると冒険的にすぎる同誌にあっては存在理由のひとつと称しても過言ではなかった。 しかしホートンのインスピレーションの源泉となったものは間違いなくオーブリー・ビアズリー作品の技法であった。 ホートンはビアズリーの線の美しさをよく口にしたものである。それもほとんど絶望したかのような口調で。 ホートンはビアズリーを表敬訪問したことがある。 後日談によると、ビアズリーはあれほど成功を収めていながらまったく舞い上がった風がなく、励ましの言葉を貰ったとのこと。当時ホートンを励ます人間などまったくいなかったのであるが。 かれとビアズリーの交流は続き、やがて1896年、アーサー・シモンズ氏の編集で『サヴォイ』誌が創刊された。 以下は『サヴォイ』誌に掲載されたホートンの作品群である。ビアズリーがメインをつとめる雑誌に名を連ねることができたのであるから、ホートンが自慢するのも当然であった。 第2号 三つのヴィジョン。ライラ・マクドナルドの詩のための冒頭飾り模様と作品末飾り模様 第4号 フォード・マドックス・ヒューファーの詩のための冒頭飾り模様と作品末飾り模様 第6号 ヴィヨンの「吊るされた男たちのバラード」のためのイラスト 第7号 キーツの詩の一節のためのイラスト 「もはや死ぬことほど豊かなことはないようだから 真夜中に痛みなく息をひきとりたい」 最後のイラストは本書にも収録されているが、キーツの親友セヴァーンが残した臨終の詩人のスケッチをもとに描かれたのは明白である。 この頃になるとホートンは象徴芸術に関心を寄せるようになり、続く2年間で独特のホートン調を築きあげている。 その一方で当代の詩人や画家たちとも交流し、作品も共感をもって受け入れられた。 この新展開が生み出した主要作品としては、1898年にユニコーン・プレスから出た『イメージの書』があげられる。 この書物にはホートンの友人であるW・B・イエイツ氏の序文がつけられている。氏がホートンのイラストレーションを評していわく 「ホートン氏は覚醒夢に神の道を見出すという“新生兄弟会”の弟子であり、かれ自身独自の覚醒夢を持っている。 わたしのそれよりもずっと詳細かつ鮮烈な夢だ。その夢を氏は絵画に写し取る。 まるでなにかこの世ものならぬマスターたちの命令で、夢がかれのためにモデルとしてポーズをとっているかのようだ。 氏は現代神秘主義のなかでもっとも中世的な運動の信奉者であるため、中世ドイツの街並みや中世ロマンスのお城を嬉々として描いてきた。 またときに、“すべての波が自分を超えてゆく”のような、中世の奇跡劇や道徳劇に見られる敬虔とユーモアの作品も描いている。 いつも面白いのは彼自身の信仰の中核シンボルを描くときである。 それは“ローザ・ミスティカ”と“昇天”に見られる女性像すなわち神的女性であり、また“聖ジョージ”や“強くあれ”に見られる神的男性である。 氏の本領は三博士を描く際に発揮される。世界の叡智たる博士たちは、神的男女の統一たるキリストをまえに香炉を掲げる。 キリストは神的男性と神的女性の統一とされる。 後光が放つ光線、飼葉桶が放つ光線、香炉と外套の豪奢な装飾、これらが混ざり合ってひとつのパターンを形成する−−敬虔から来る居心地のよさと、賛美から来る複雑な装飾がホートン氏一流の型を生み出しているのである。 幻想的な風景、白い空に絡みつくような煙突の群れ、小さな光の点々のある暗い谷、雲のように危うげな市街と教会、こういったものですら魂の履歴の一部である。 ホートン氏自身の言葉によれば、あえてすべてを幽霊のように描いたのも、万物みなこれ覚醒夢の如しとの実感を得たかったからであるという。 霊的目標が芸術的目標と交じり合い、後者を損なうことがない場合、新たなる誠実、新たなる素朴が生まれるのである 。氏は当初、色彩を用いて対象を写し取ろうと試みていた。色彩をどれほどマスターしようとどうしようもない作業であるというのに、ほとんど技量もなしに挑戦していたのである。 しかしほどなく氏も気がついた。日常の風景と人物、そして中世の護符にある幾何学的紋章の中間にある形式的かつ因習的イメージを用いることによってのみ、何物も一瞬として静止していない世界、色彩が芳香を放ち、芳香が音階を持つ世界を表現できるのだ、と。 氏のイメージはいまだ少数である。より豊かになりつつあるが、やはり少数にとどまるであろう。 日常生活を写すことに満足している者はひとつのイメージを繰り返す必要がない。目に映るものは常に変化する風景であり、写すことが不可能だからである。 一方、自分の好むものからしかシンボルを作り出せないシンボリストの作品には、一種の単調さが常に伴うのである」 * * * * * * * 『イメージの書』に続いて出たのがエドガー・アラン・ポーの『大鴉 落し穴と振り子』である。ヴィンセント・オサリヴァンの解説付きで版元はレナード・スミザース、ホートンの一連のイラストが収録されている。 しかしこれらのイラストはホートンの最高傑作とはいいがたい。 ホートンが主となった書物は他に二冊ある。 まずは1900年の『グリーグの本』だが、これはナーサリー・ライム集に一連の風雅な彩色画をつけたもので、現在では大変な希書となってしまった。火事により大部数が焼失してしまったからである。 そしてもう一冊が「線画と詩文による伝説」、『魂の道』である。詩、文、ともにホートンの筆になる。 サー・ラルフ・シャーレイのまえがきにいわく、「本書を構成する象徴絵画の目的は、物質次元での苦闘を通じて高次の自己への実現に至らんとする魂の闘争を描くことにある」とのこと。 確かにホートンは、その人生の大部分において、自分自身の作業がなんらかのオカルト的力の影響下にあると信じていた。 この方面の話はわたしの手に負えるものではないが、単に線画としてのみ判断したとしても、『魂の道』に収録された作品には大変美しいものもあるし、どの作品からも技術的にも向上している様子がうかがわれる。 ホートンはウィリアム・ブレイクの大ファンであったから、画にも付属の詩文にも影響が見られる。 ホートンはブレイクを「狂人」とする文言に接すると憤慨するのが常であった。 かつてある人がブレイクをべドラム癲狂院の入院患者であったと評したとき、ホートンは自らその説の根拠を確認する役を買ってでて、ついにフランスのとある雑誌の記事にまでたどりついた。 そこにはベドラムにいる詩人を訪問したときの様子が描かれていて、十分に説得力がある内容であった。 しかしホートンは納得せず、さらにベツレヘム病院の記録を調べあげ、1815年から1835年(雑誌記事の掲載年)までブレイクの名前が病院記録にないことを発見したのである。 * * * * * * * 長年にわたりホートンは「新生兄弟会」に所属していた。 具他的な年数や、いつ関係が切れたのかはわたしにはわからない。 かれは奇妙なほど浮世離れした部分があり、宗教心も深かった。また原稿状態で残っているかれの文章の大部分が宗教と芸術を扱っている。 後年かれはウェストミンスター・アビーとウェストミンスター・カセドラルの両者でおかまいなしに礼拝していたようである。 またかれは音楽も大好きで、コンサートにも熱心に通っていた。しかし音楽に関する技術的な知識はまったく持ち合わせていなかった。 * * * * * * ホートンの絵画は時期別に分類できるといってよい。ある部門を徹底してやってみたのち、ぽいと放り出して次の部門に移行するのである。 ホートンは自分の精神発達の研究に大いに関心があったため、作品に関しても文章による記録を残している。かれの絵画はそれぞれ番号と制作年月日が明記してある。 かれはまた生活に関してもとても簡潔な記録を残している。 主なものとしては1895年から死ぬまでつけられた「作業日記」があげられる。 内容は一日あたり一、二行くらいで、線画関係の記録(ナンバー付)、文章作品、人と会う約束、ロンドン訪問、海外旅行等が記されている。 全体の印象としては、ホートンは一箇所に定住することがどんどん困難になっていったようである。 ブライトン時代が一番長いが、これは実家とのつながりに加え、気候がかれに合ったというのが大きいと思われる。 それでもホートンはしょっちゅういらいらしており、ガス抜きにロンドンへ頻繁に出てこられたからよいものの、そうでなければまず我慢できなかったのではなかろうか。 * * * * * * 1900年9月、ホートンは一大決心のもと、家族とともにブライトンを出て、ロンドンに移った。 転居先はセントジョンズウッドのアルビオン・ロードで、複数年契約で借りた家に入っている。 わたしの記憶では、引越し直後にこの家でかれと食事したと思う。持ち物を配置し終えたばかりだったが、ようやくすべてに満足できる場所を見つけたと喜んでいた。 しかしすぐに引越ししたことを後悔したのである。新しい環境では作業がどうにもうまくいかず、わずか二ヶ月でブライトンに戻ってしまった。 この経験のおかげでブライトンのありがたさが身にしみたにせよ、ホートンの生涯につきまとうあの落ち着きのなさは決して治ることはなかった。 1904年の春、かれは移住を念頭において南アフリカまで航海したのであるが、上陸してケープタウンを一望するやいなや、次の船で帰国の途についたのであった。 同年8月、ホートンはロンドンとブライトンの二極生活を決意し、ウェストミンスターのスミス・スクエアでまかないつきの下宿に入った。 その2ヵ月後、今度はチェルシーのチェイン・ローに一室を借りていて、1907年まではほぼここで過ごしていたようである。 1908年8月にはモスクワにとんぼ返りの訪問をし、1911年には数ヶ月間アメリカに滞在してイエローストーン公園を見学している。 この間、フランスにも数回赴いていて、ヌードデッサンの講座を受講したりしている。ホートンはこの方面をながらくおろそかにしていたのだ。 1910年にはハムステッドに移り住んで数年暮らしている。一時期はヒースの茂る平野部の一軒家で寝起きをしており、その後は市街に戻っている。 最終的にはブルームズベリーはカートライト・スクエアの古い家の一角を占拠し、静謐と幸福の数年間を送った。その後は悲嘆の時期となってしまった。 * * * * * ホートンはつねにどことなく孤独だった。 想像してみるとよい、ベルギー在住でフランス語しか話せない英国人少年を。 その少年がその後ブライトンの学校に通うのだが、英語がうまく話せないのだ。 ホートンはより素晴らしい別世界からこの世に流されてきた人間のようだった。完璧が存在しない世界で完璧を求める理想主義者といおうか。自分自身の世界に棲んでいる人間といおうか。 かれが住んでいた当時、チェルシーにはホイッスラーの思い出がまだ色濃く残っており、ホートン自身もその界隈をロンドンのカルチェ・ラタンだと見なしていた。 それでいて自分ではチェルシー名物のスタジオ生活を送ろうという気はなかった。 ウエストミンスター、ハムステッド、ブルームズベリーと、ホートンは次々に魅了されていったわけだが、その土地の外観と伝統に接するだけで満足してしまい、実際は他のロンドン区域と同じくつまらない場所だと気づくことがなかった。 おそらくこの生活感のなさ、人生のリアルな局面からの隔絶ゆえに、ホートンはより幸福だったのかもしれない。 かれの世界はもっぱら夢幻というか覚醒夢の世界であって、かれの作業の大部分は大挙して到来するイメージを描くことに費やされた。 どうもそれらは、芸術家ならばだれでも大なり小なり持ち合わせているあの天分すなわち視覚化能力の産物だけではなかったようだ。 わずかに残る子供時代の記憶メモによれば、ホートンは幼少より常に不可視の存在を身近に感じていたという。 この感覚は一生つきまとっており、ゆえにかれは暗闇がこわくて我慢できなかった。 物心ついた頃からヴィジョンを体験していて、とりわけ夜、クッションに王冠を置いてさしだす二人の甲冑兵士の姿が心に残っていたという。 * * * * * ホートンはたいへん人懐こく、魅力あふれる人柄えであったからすぐに仲良くなれるのだが、多数の友人を作るにはいささか神経が過敏といえた。 数少ない友人たちはみなホートンに入れ込んでおり、かれがいかに温和かつ寛容な人柄をであったかを証言するであろう。 ホートンという人はいつ会ってもたいてい一人なので、長話にもつきあってくれるし、誘えばどこにでもついてきた。 あの背筋の伸びた姿勢、飾り気のない友好的な青い瞳、心のからの笑い声をわたしは一生忘れないだろう。 * * * * * 1916年、かれは大切な友人を失うという悲運に見舞われ、そのショックから完全に立ち直ることはできなかった。 かれはもはや別人となり、人生にさして興味を持たないようになってしまった。 それでも作業は続けており、大英博物館図書室のお決まりの一角で日々、勤勉に書き物をしている姿がよく見られた。 * * * * * かれとの付き合いはかなりの年月になったが、その間、健康状態は良好だったように思う。 ただし、後年になると食事療法にあまりに気を配りすぎていた。しばらく付き合うと誰でも気づかざるを得ないのが、かれの念頭に占める食事関連の割合だった。最高傑作を生み出すためのダイエットを見つけようとあれこれ試していたのである。 ときどきベジタリアンになり、さらに食物をあれこれ試すが、おおむね粗食になりがちだった。 おそらく心身にもその影響が出てしまい、生気が失われていたと思われる。 大戦中はみんなと同様、栄養失調に苦しめられていただろう。 * * * * * 1918年初頭、ホートンはロンドンの路上で自動車に轢かれた。 外見から判断する場合、この事故からは回復できたようである。作業日記の記録によれば、かかりつけの医師の診断では、とりたてて深刻な問題はないとされていた。 しかしこの年の4月頃から症状が再発していたのだ。実のところそれは死病の初期症状に他ならなかった。 視力は衰えてしまい、生まれて初めて眼鏡をかけるはめになっている。 * * * * * カートライト・ガーデンズの自室で孤独な禁欲主義者の生活を送ってはいたが、ホートンはまったくの孤独というわけではなかった。 ライダー・ハガード、レディー・グレゴリー、イエイツといった少数の友人に会いに行くこともあったし、生涯の趣味というべき劇場通いも続けていた しかしブルームズベリーにおけるかれの晩年の孤独ぶりを示すエピソードを紹介しよう。 かれの部屋は大きな建物の最上階にあり、大きな螺旋階段を上っていかなければならない。 ある土曜日、夜遅く帰宅すると、建物のなかにはだれもおらず、真っ暗な階段をあがっていくことになった。 大きな鞄を持っていたため、いつものように階段の手すりを伝うことができなかった。 最上階について電気を点けてみると、手すりも柵も見えなかった。かれが知らないうちに、取り払われていたのだ。 そのことをかれに教えてくれる人もいなかった。階段を上る際、右側によろけていたら、そのまま転落するしかなっただろう * * * * * わたしが最後にかれにあったのは、1918年9月10日、日曜日、ロンドンでのことだった。 その数日前に手紙を貰い、いわく「油絵の色彩効果の実験」をやったから見てほしいと言っていた。「まだ発展中だから画家仲間には見せていない」とのこと。 それでわたしの家にやってきて、午後から晩まで過ごしていった。それまで数ヶ月会っていなかったが、かれは目に見えて老け込んでいた。 しかし視力減退以外には愚痴はこぼさなかった。かれの仕事にとって、それはかなり深刻な問題だったようだ。 一連の油絵を包んで大きな荷物をもってきていた。それはあの頃のホートンの努力の産物だった。 構図らしきものはなく、形もデザインもない色彩のブレンドと調和だったが、それなりに豪華な夕陽あるいは奇怪な空模様の下のの野山や山岳を思わせるものだった。 その種の作品群で個展を開きたいと言っていたが、残念ながらそれらが遺作になってしまった。 * * * * * 10月4日、ホートンはロンドンを離れ、ホーヴはヨーク・ロード在住の妹さんのもとを訪れている。 そして同月10日、きわめて深刻な病状となった。 わたしは手紙をもらった。いまはやさしい手の内にあり、できるだけのことはしてもらっていると書いてあった。 かれは病気のことを認めていた。長年の不摂生と無理のつけがついにまわってきたのだ。 12月12日、最後の便りにはフランス語でこう記してあった。 「ぼくがカトリック教会に入信するといってもきみは驚かないだろう。もうぼくには他の道がないからだ」。 1919年の主顕祭の日、かれはローマ・カトリック教会に受け入れられ、2月19日、最後の秘蹟とともに他界した。 いまはケント州アッシュフォードの一族の墓所に眠っている。 Rest In Peace. (了) |