Eguchi, Baitei
江口梅亭
(1838-1905)

 幕末から明治にかけて佐賀県で活動した医師。本名保定。
 幕末のプロテスタント布教史に若干の足跡が残るためここに収録される。
 
 鍋島の支藩村田家に仕える侍医の家に生まれる。佐賀藩の医学校である好生館に学び、その後長崎医学校にてボードウィン、マンスフェルトの両医師に師事。医学校の塾監に抜擢される。
 明治2年、主家に帰り、以後村田家の侍医となる。
 明治4年、佐賀医学教諭に任ぜられる。
 明治11年、佐賀病院長に就任。
 明治35年、引退。
明治38年2月8日病没。

 梅亭が登場するプロテスタント挿話は以下の如し。

 1855年、英国軍艦が長崎に寄港した際、長崎警備役の佐賀藩士が波間に漂う一冊の西洋の書物を発見し、これを佐賀藩の家老村田若狭守政矩(1815-74)に提出。もともと蘭癖で鳴らしていた村田若狭守は、この書物にいたく興味を抱き、それをオランダの通詞に見せたところ、英語の聖書であることがわかった。
 村田若狭守は佐賀に帰ると、若き侍医見習の江口梅亭を長崎に派遣し、問題の書物を調べさせた。梅亭は1859年に長崎にやってきた宣教師フルベッキ(1830-98)に会い、英語聖書がすでに漢訳されていることを知ると、すぐに漢訳聖書を入手して村田若狭守に届けている。
 漢訳聖書を読んでもなかなか内容が理解できなかった村田若狭守は、1862年に江口梅亭、村田藩士本野周蔵、そして弟である村田綾部をフルベッキのもとに派遣。この三名は日本最初の英語バイブルクラスの生徒としてフルベッキから新約聖書を学ぶこととなった。
 村田若狭守は上記三名から間接的に聖書を学び、結果として弟綾部とともに1866年5月20日にフルベッキから先礼を受けている。村田若狭守は洗礼の件を鍋島本藩に正直に報告しており、隠居という比較的穏便な沙汰となっている。村田若狭守はその後久保田村の屋敷にて漢訳聖書の和訳に勤しみ、1874年に他界している。

 梅亭自身は洗礼を受けることなく、医師として生涯を全うしている。ただし、かなりの変人、ひねくれ者であったらしく、後世まで「いひゅう梅亭」という別称が伝えられている。「いひゅう」は肥前肥後の方言で「気難しい人間、変わり者、ひねくれ者」を表す形容詞。漢字としては「異風」が当てられる。

主要著作
参考文献 Cary, Otis : A History of Christianity in Japan, 2 vols, 1909.: Curzon Press, Surrey, 1994.
久保田町史編纂委員会編『久保田町史』久保田町、昭和46年。


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