アンナ・キングスフォードのカバラ 2

1884年2月26日 シュロブタイド

月に関するカバラとヘルメス学の秘密教義こそ物質化に関するグノーシス理論に多大な光を投げかけ、ある種のヘブライ神話や他の神話の秘められた意味を明らかにするものであろう。

 カバラにおいては、第10のセフィラが疎外されている。他の九つのセフィラがすべて互いに三つずつ連携しているというのに。この分離と疎外の原因は、第10セフィラの特殊機能と性質にあるという。マルクトという名前のこのセフィラは、カバラにあっては「ミクロプロソプスの妻」、「月」、「伴侶」、「教会」、「聖櫃の処女」、「マトローナ」と称される。マルクトに関しては、彼女は「現実」actuality であるといわれる。事物は最初の九つのセフィラのなかでは潜在的に存在するのであって、無形世界ないし純粋存在世界では実質を有さない。それらはマルクトによって現実化し、可視化し、顕現するのである。マルクトは「要因」を活性化し、仮想現実化する。ゆえにマルクトは「運命」Fateとなるのであり、カバラでは彼女のこの局面をとらえて「揮発物の凝固力」という属性を与える。他の九つのセフィラないし大いなる神々は、その純粋霊性ゆえに単なる可能性ないし潜在力でしかない。すなわち、それらはその存在性質ゆえに首尾一貫して絶対的かつ非差異化的である。そして多様なモードのもとで顕現が可能であり、また多様な度合いでその力と壮麗の応用も可能ではあるが、それぞれの異体同形性は不変なのだ。しかし第10のセフィラには二重性質がある。すなわち陰と陽があり、これを占星術用語で言うならば、「良き影響力」と「悪しき影響力」となる。カバラにいわく「ミクロプロソプスの妻の上半分はイスラエルの妻レアと呼ばれ、下半分はヤコブの妻ラケルと呼ばれる」。ギリシャ人は月を語るに際し、その良き面をアルテミスないしフィービと称し、悪しき面をヘカテと称する。

 ギリシャのエレウシス密儀において、知性の擬人化であるデメテルがペルセポネ(魂)を九日間探して徒労に終わる。しかし十日目にヘカテに出会い、娘が泣き叫びながら地下世界に連れていかれたことを聞く。ペルセポネがもとの世界に戻ったのち、ヘカテはペルセポネの同伴者となる。そしてペルセポネは一年の3分の2を上の世界で、3分の1を下の世界で過ごすことになる。ヘカテもまた死者の魂の同伴者であると言われている。そして犯罪とりわけ殺人が犯されるとき、復讐の女神としての彼女の影響力は絶大であったという。

 こういった寓話の真意は、マルクトすなわち月がカルマをあらわすことを理解すれば、すべて一瞬にして明瞭となるであろう。もちろんカルマには魂ないし志願者の性質によって二つの顔を有する。

 地球がその固体化の過程において衛星すなわち月を放出したように、人間はその個性化の過程において自らのカルマないし運命を放出し、恒常的同伴者ないしコントロールとして固定化する。この同伴者は善にも悪にも作用するのである。かくして人のカルマないしゲネウスは擬人化されて秘儀伝授者となり、あらゆる変化の際に人に先んじ、またフォローする。その良き顔はアルテミスであり、兄フォイボスの神的光を受け、人の身に反射する。暗きよこしまなる顔は悪しき影響力を反射する。それは復讐者ヘカテの顔である。

 ヘブライの寓話も同様のことを語る。ヤコブは人間の魂であり、その母レベカはデメテルと同じく知性である。レベカはヤコブを遠い国に送り込む。それは父の家から遠く離れた場所であり、すなわち魂が降下する下の世界である。その場所にてヤコブは美しきラケルと恋に落ちる。彼女はすなわち善なる局面の月である。しかしヤコブがいざラケルを抱こうとすると、邪悪なるカルマであるレアと直面する羽目になる。そしてラケルの祝福を得たければ年季奉公をつとめあげねばならぬと言い渡される。かくして魂の妻には二面性があることがわかるし、物語を通じてかれの親戚の話が続くのである。霊的エジプトの君主にしてゲニウスであるヨセフ、そしてキリストの名目上の父親であるヨセフは、もちろん魂の善なるカルマの子孫である。

 かくして、オカルト関係における物質化傾向がいとも簡単にマルクトを邪悪なる影響力に変えてしまう理由も理解しやすい。霊的科学が多々あるところ、良きもの、美しきものが住まう傾向が高まるといえる。物質科学が多々あるところでは、邪悪なるもの、忌まわしきものと関係を持つことが多くなるのである。かくして邪悪なる無宗教の人間ほど迷信深く、霊体や幽霊を恐れる。月が夜にかれらを撃つからである。そしてかれらは邪悪なる人生を送るがゆえに魂を「三身のヘカテ」に引き渡してしまう――馬のように速く、犬のように確実で、獅子のように無慈悲といわれる女神に。こういった魂は月の力を恐れる。来世に向かって積み上げている悪のカルマをどこかしら予感しているがゆえに、月の光に地獄の恐怖を覚えるのであろう。

 もちろん魂は事物に囚われないかぎりカルマを持ちようがない。カルマは《時間》と《顕現》の属性にして結果である。「祝福されたる者」は「運命」から解放されている。ゆえに第十のセフィラであるマルクトは別名を「現実」というのである。現実なるものは時間によって実現するのであり、現在過去未来の三時制に従属している。マルクトの世界は「形」あるいは「結果」の世界である。他のセフィロトは純粋原因の無形の世界を本来の場としている。デメテルを見よ。彼女は九日九晩にわたって行方不明の娘を捜し求め、徒労に終わる。九箇所の神々の住まいを次々に訪ねる。娘はハデスすなわち事物すなわち結果の世界に落下しており、純粋原因の世界をいくら捜してもみつからなかったのだ。デメテルは運命すなわち現実すなわちレアの住まいにやってきた。ゆえにヘカテのみがデメテルに娘の居場所を教えることができた。それからヘルメスの力を借りて(オルフェウスによればバッカスの力を借りて)デメテルは娘を取り戻す。もちろんヘルメスもバッカスもこの関連においては同じ観念−−魂を物質より解放する霊ないし聖なる粒子、−−をあらわしている。すなわち「囚われた魂」(聖ペテロ)を救出するためにハデスの牙の真っただなかに降下していくキリストなのである。

 ゆえに一部の神的見者でないオカルティストが、邪悪な魂と腐敗する自我が現実の月すなわち物理的衛星の月に行くと考えている。この観念はもちろん今述べたばかりのカバラ教義が劣化して物質にまみれたものでしかない。マルクトは物理的月ではなく、月のアーケタイプ的観念である。そしてこのアーケタイプと魂は同族同起源の関係にある。一方物理的衛星と魂は不適合関係にある。もともと起源が異なるものを関係させているからだ。もちろんカバラ教義では類似するものを比較し、類似物の親和関係を保持しようと試みる。凡百のオカルティストの教えは非科学的にして混乱を生じさせるのみである。「女はけものと寝てはならない」と聖書が記す。すなわち霊的なるものは物理的なるものと決して正統かつ親密な関係を結べないという意味である。この理由のゆえに、流血による魂の救済は不可能かつ冒涜と見なされる。秘教科学の立場から見れば、神の受肉は馬鹿げていると考える。そういった生理学的プロセスは魂に対して関係を持ち得ない。

--Edward Maitland ed. Life of Anna Kingsford (London: Watkins, 1913), Vol.2., pp.173-4

解説 : もちろん最大の注目点は「マルクト=月」という配属であろう。マルクトの称号である「花嫁」とペルセポネ神話を結合させて生まれた解釈といえる。正しいとか正しくないという問題ではなく、発想として面白い。



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