英国国王ジェイムズ一世著『悪魔学』(1597)

読者へのまえがき

 昨今、わが国には恐るべき悪魔の奴隷たる魔女や魔法使いが溢れており、ゆえに余は急遽以下の拙論を世に送りだそうと決意した。無論、余の学識や知恵をひけらかすためではなく、ただ良心の命ずるところ、世人の疑念を氷解せしめんと欲するがゆえである。すなわちサタンの攻撃は明らかに行われておるのであり、その手先たる者どもは厳罰に処すしかない。しかるに昨今、二人の厭うべき者どもの見解が世に流布しておる。一人は英人スコットと申し、魔女の術などありはしないと公言してはばからず、ゆえに霊の存在を否定した古のサドカイ教徒の過ちを繰り返しておる。もう一人はワイエルと申すドイツの医者であり、魔女連中を公に弁護しておる。そうすることで魔女どもの悪行が横行するのであるから、この男は自ら連中の仲間であると告白しておるに等しい。

 さて、この論文を平易かつ読みやすくするべく、余は問答形式を採用し、さらにこれを三巻に分割した。第一巻は魔術全般、とりわけ死霊術を扱う。第二巻は妖術と魔女術を、第三巻は人を苦しめる霊や幽霊を扱い、さらに全体の結論を記す。余の意図するところは、二点の証明のみである。前出の如く、悪魔の業が過去も現在も実在すること、そして悪魔の一味どもが峻厳たる裁きと処罰に値することである。そして余は悪魔の術がなにをなしうるか、それがいかなる自然原因によるものかを類推する。余は悪魔の力のすべてを詳細に検討する気はない。それは無限といってよいほどだからである。スコラ派風に述べるならば、余は種ではなく類を論ずるのであり、それをもって種差を把握せんとする。たとえば、第一巻六章にて扱う魔術師の力がある。あらゆるご馳走など、かれらが突如として引き寄せるものはすべて使い魔が運んでくる。使い魔は盗賊であるから盗みに愉悦を覚えるのであり、また霊であるから突如として精妙化して物品を運ぶなど容易である。この類をもって種を理解するとなれば、かつて報告された葡萄酒を壁から取り出す件なども合点がゆくであろう。事の詳細は全般を論じれば十分に明らかになるのである。余は以上の如き論法により、魔女術を扱う第二巻五章において、魔女がその主人の力を借りて病を治したり広めたりすることを証明する。それはとりもなおさず魔女どもが、男女の交わりを阻害するといった個別の術だけでなく、悪魔の力によって病全般を支配する力を有することの証明となるのである。

 ところで読者にはとりわけお願いしておきたいことがある。余は悪魔の力を論じるが、それは目的も視野も異なる状況でのことである。第一原因としての神と、その道具にして第二原因としての悪魔という前提が、神の絞首人としての悪魔の作業のすべてに貫通していることをよく理解しておいてもらいたい。悪魔の意図が人の魂や肉体の破滅にある場合は、それが許可されているからである。一方神は、悪魔の邪悪を懲罰の鉄杖とすることで悪人に破滅を、患者に試練を、信仰深き者に更生をもたらし、絶えることなき栄光を引き出すのである。

 本論における余の意図をここまで宣言した以上、特定の儀式や不思議の技の詳細が割愛される理由は、賢明なる読者には容易に了解されるであろうし、第三巻一章の後半にも記してある。そういった事物に興味を持つ者はボダンの「悪魔狂論」を読まれるがよろしかろう。同書は勤勉に収集された事実を連ねており、昨今の憂慮すべき風潮である軽率な判断よりも重みがある。悪魔の力に関する古人の見解を知りたい読者は物故したドイツの作家ヒペリウスとヘミンギウスを当たられよ。その他にも、この主題を扱う現代の神学者は無数にいる。不要にして危険たる黒魔術の技のなんたるかを知りたいと欲する者は、コーネリウス・アグリッパの第四書や前出のワイエルを見るがよい。されば本論の真意が賢明なる読者に首尾よく伝わり、上記のあやまちに備える武具とならんことを祈念しつつ、この場の筆を置くものとする。


王 ジェイムズ

解説 : 国王の魔術書として有名な Demonologie (1597) の序文である。見てのとおり、レジナルド・スコットやヨハン・ワイエルに対抗すべく記されたもので、本編ではフィロマンテスとエピステモンという2名が対話するという形式で悪魔と魔女の技を紹介し、批判していく。全体に真面目な論調であり、スコットの軽妙と実に対照的である。
 16世紀末の時点で使い魔 familiar spirit という表現があり、ボダンが紹介されるなど、当時の魔術事情がうかがえる。さらにいえば、現在では偽書とされるアグリッパ第四書が注釈抜きで登場しており、魔術書出版がかなり盛況だったのではないかと思われる。

 なお、原文は改行なしの一段落であるが、あまりに読みづらいため適宜改行させていただいた。




戻る