Wilde, Constance Mary (nee, Lloyd)
コンスタンス・メアリー・ワイルド
(1858-1898)


魔法名 Qui partiur vincit(4-7, GD)

☆ 天才オスカー・ワイルドの妻。人間の屑のような亭主のためにひどい目に遭った薄幸の女性。一時、「黄金の夜明け」団に籍を置いていたため、ここに収録される。

 1858年1月2日、ロンドンの裕福な法律家の家庭に出生するが、両親の仲は悪く、寂しい少女時代を送る。当時の良家の子女の例にならい、とりたてて学校に通うこともなく、絵画、音楽、文学(無害な詩歌)をたしなみつつ成長。すらりとした姿、象牙色の肌に菫色の瞳、豊かな栗色の髪という美貌の女性になっている。
 オスカー・ワイルドとの結婚は1884年5月29日。コンスタンスはダブリンの母方の縁者の家に滞在していて、当時気鋭の美学者・詩人ワイルドと出会い、恋に落ちたのである。結婚後、若夫婦はロンドンのタイト・ストリートに居を構え、翌年、翌々年と男児二名をもうけている。コンスタンスは若き耽美的詩人の妻として常に注目される存在となり、パブリック・シーンで彼女がどんなドレスを着ていたかが新聞報道されるほどであった。
 コンスタンスのオカルト方面に対する興味は手相術、占星術に始まり、心霊術、神智学という順番で深まっている。オスカーもこの方面は決して嫌いなほうではなく、特に手相をよく見てもらっている。また、オスカーの母スペランザ・ワイルドも、自宅に霊媒を呼んで交霊会を開くなどしており、コンスタンスの周囲は少なくとも彼女のオカルト的興味を非難するものではなかった。むしろ、当時のやや進歩的な女性にとっては、心霊術や神智学をかじることがファッションの一つだったと言えよう。

 コンスタンスの「黄金の夜明け」団参入は1888年11月、神智学協会経由のものと思われる。この時の模様をともに参入儀式を受けたド・ブレモン伯爵夫人が語るには、

「私はその試練[0=0儀式のこと]を極めて冷静にやりおおせたけれども、私の連れコンスタンス・ワイルドはそうはいかなかった。彼女が震えているのが感じられたし、私の手を握りしめている彼女の手は氷のように冷たかった。参入許可のための決まり文句を一緒に唱えた時、彼女の声はためらいがちであった。この文句がそれは凄いもので、団の秘密教義や運営法を口外した者には恐ろしい災難が降りかかると脅すのである。この時、私のユーモア感覚はくすぐられ、あぶなく笑いそうになっていたが、コンスタンス・ワイルドの美しい瞳は涙で溢れていた。その後、コンスタンス・ワイルドが儀式やその他の詳細をすべて忠実に夫に報告していたことがわかった時、団員の多くが彼女の家族に降りかかった不幸な事件を、誓いを破ったために起きたものだと考えた」
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 儀式を行う者の立場になれば、誓いの言葉を真剣に受け取って涙を浮かべる美女がどれほど好ましい存在であるか、想像はつく。笑いそうになった伯爵夫人は数カ月で団から除名されているが、泣き顔のコンスタンスは1889年11月まで団に籍を置き、4=7 まで達して休団となっている。休団理由に関して、エリック・ハウは「世俗的な亭主が妻のオカルト的興味を知って文句をつけていた可能性は考えられる」2としているが、オスカー自身もなにかにつけ手相を見てもらっていた人物である。むしろ、当時コンスタンスがかかわっていた「婦人服改革運動」や「婦人参政権運動」のほうが忙しくなりすぎた結果と思われる。

 コンスタンスはその後も売れっ子芸術家オスカー・ワイルドの妻として、また二児の母として順調な人生を送るはずであったが、1891年夏にオスカーが破廉恥な同性愛の美青年貴族ロード・アルフレッド・ダグラスと知り合ってからすべてが狂い始めている。 オスカーは家庭を顧みずに美青年と同性愛に耽るようになり、金を湯水のように使い始めている。この屑亭主はコンスタンスのどこに不満があったのか、想像を絶する。オスカーはダグラスを何度も家に招き、愛情深く献身的な妻とともに食事をさせている。1895年1月、コンスタンスが自宅の階段で足を滑らせ転落し、脊椎損傷という重症を負った時、オスカーとダグラスの二人はアルジェリアで同性愛に耽っていたのである。
 やがてダグラスの父とオスカーの間で裁判沙汰が起こり、オスカーが最終的に同性愛罪で投獄されると、コンスタンスは二児を連れて国外脱出を余儀なくされている。各地の知人を頼りにスイス、イタリーを転々として、ホテルで同性愛者ワイルドの親族と分かって追い出されることもあり、名前もホランド Holland と変えた。コンスタンスにとって、最大の懸念は子供たちの将来であり、獄中のオスカーなど二の次であった。脊椎損傷に起因する歩行困難が彼女を苦しめていた。
 1897年5月にオスカーは釈放されたが、コンスタンスは彼に会おうとはせず、子供たちにも会わせようとはしなかった。絶望したオスカーは、自殺でもするかと思ったら、再びダグラスと落ち合って、手に手を取ってナポリへ高飛びしている。 その後、コンスタンスの病状は日増しに悪化し、半身不随になっている。
 1898年4月7日、 イタリーのジェノバにて死去。

 コンスタンスはその後、半世紀を経過してから息子ヴィヴィアンの夢枕に立って、こう告げたという− 「あなたの子供時代の思い出を書いて欲しいのです。オスカーがまだ存命中の頃や、死んで間もない頃、遥か昔、オスカー・ワイルドの息子であったための孤独な日々のことを。恐らく、そのことであなたを責める人もいるでしょうが、多くの人々が賛成してくれるでしょう。それに、あなた自身の息子のこともあります。あの子のためにも書かねばなりません」
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 ヴィヴィアン・ホランドは決して心霊術やその種の現象を信じるほうではなかったが、母の勧めに従って著書をものしたのであった。

1. Bremont, Oscar Wilde and His Mother (London: Everett, 1911) p.97-98. この記述に於いて注目すべき点は、二人が同時に0=0儀式を受けているということである。「黄金の夜明け」団は一般人のクラブであったから、多人数が必要とされる0=0儀式を行うのは日曜休日に限られていた。0=0儀式が約一時間を必要とする儀式であることも考慮に入れれば、新入団員が複数の場合は二、三人をまとめて儀式を行っていたと考えるほうが自然だろう。
2. Howe, The Magicians of the Golden Dawn (London: RKP, 1972) p. 50.
3. Holland, Son of Oscar Wilde (Oxford: Oxford University Press, 1988) p.7.


主要著作
参考文献 Amor, Anne Clark: Mrs Oscar Wilde: A Woman of Some Importance, Sidgwick and Jacson, London, 1983.: p.b. 1988.   
Bremont, Anna Comtesse de, Oscar Wilde and His Mother, Everett, London, 1911.
Holland, Vyvyan: Son of Oscar Wilde, Rupert Hart-Davis, London, 1954.: Oxford University Press, Oxford, 1988.


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